「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

和賀岩崎の陣・参

2010-03-02 15:14:06 | 歴史・民俗

 慶長5年9月、和賀主馬忠親に率いられた和賀一揆勢による南部方、鳥谷崎(花巻)城攻めが失敗に終わり、和賀一揆勢は二子城(北上市)へ撤退、程なくして和賀岩崎城へ一揆勢は移動して岩崎城に篭城するに及んだ。

 

岩崎城跡

〇伊達政宗の思惑

 

 天下人、豊臣秀吉が没すると、近世への転換は急を告げ、諸大名の中の実力者、徳川家康と家康の独断を許すべからずと唱える石田三成との対立は避けられない雲行きが漂い始める。

 会津120万石の大大名、上杉景勝は石田派としての態度であったので、徳川家康の討伐対象となり、会津上杉討伐軍が東国へ進軍、この出来事が関ヶ原の目に見える直接的な要因でもあろう・・・・。

 そんな中、伊達政宗は徳川家康と結びつくことによって上杉家に対抗し、虎視眈々と南奥の盟主、いや奥羽全体の盟主の座を欲することを目論んでいたともいわれる。

 その思惑のひとつ、北で境を接する南部領侵食、支配権拡大の野心が見え隠れし、まずは和賀郡へその矛先を向け和賀郡旧主、亡き和賀義忠の子で和賀又四郎(後に主馬忠親)を利用しての政治的思惑が語られている。

  慶長5年(1600)、慶長3年ともいわれますが、伊達政宗は境目巡回と称して南部領和賀郡にほど近い、胆沢の地に足を運び同地の大林(平林)に和賀又四郎を呼び寄せ、かつて又四郎の父、和賀義忠が領していた和賀郡を南部利直から奪還の策を授けたと語られる。

 かくして和賀旧臣を以っての蜂起を促し、一揆成功の暁には伊達家旗下への取立てで和賀家再興を図るといった双方の利害が一致したことにより和賀岩崎一揆は勃発したと大方はみられている。

 伊達政宗による物理的援助の他に、伊達家家臣の白石宗直に命じ母帯越中、上郡山外記等をその後詰にあたらせたことによって和賀勢は大きな力を得、勝利を確信したものと思われる。

 伊達政宗による作戦ともいわれるが、南部領南の拠点は和賀郡と北で接する稗貫郡の鳥谷崎城(花巻)であり、花巻を抑えることでその後の戦況は有利となるとの目算で、まずは鳥谷崎城の攻略が発動される。

 

 和賀主馬に蜂起を促した伊達政宗であるが、徳川対石田の対決構図の中にあっても、天下の形成はどちらに転がるのか、多くの諸大名にあっては、様子見的な立場であった者も少なくない。

 南部利直もその一人でもあったと推測されますが、徳川家康の要請に応じて徳川方、山形の最上義光に加勢の軍勢を自ら率いて参陣はしているが、一方では上杉景勝に書状「秀頼様御奉公」を送っていることが明らかであり、その動揺がみてとれる。

 伊達政宗はこのような態度不鮮明であった南部利直を見透かし、上杉、石田側へ擦り寄る可能性を秘めた南部氏に対して和賀郡侵攻の策謀をめぐらせたともいわれ、あわよくば和賀、稗貫の各郡のみならず、南部領の大半を徳川家康と結ぶことによって支配圏拡大の野望があったものと推測できますし、万が一徳川方が石田方に敗れるようなことがあれば、この機に乗じて切り取れるところは切り取って少しでも勢力拡大の意図があったものかもしれない。

 いずれそのターゲットとされた南部利直の心中は察するに余りあるが、家康も政宗からの報告も受けていたと思われるも、同年9月、和賀一揆が勃発すると南部利直は、徳川家康の許しを得て同年10月初めに和賀勢鎮圧を口実に軍を最上から退いている。

 徳川家康は、伊達政宗の思惑を把握しながらも南部利直に南部領内の兵乱鎮撫の許しを与えたことになり、伊達政宗の策謀の上手を行く策士であると考えずにはいらない。

 既に関ヶ原での勝敗は決した直後ではあったが、伊達政宗は和賀主馬忠親による一揆をそのまま後援しつつ、後に遠野での騒乱では旧主、阿曽沼広長を庇護して遠野奪還の援助、さらに釜石狐崎館には領内の浪人を集めて侵攻させるなど1年以上にわたって南部領への策略を実行している。

 

 

おまけ

 

ネネ

 

 

いつものネネに戻っております・・・笑

 

ただ、薬が効いているのか、以前よりは少し大人目でもあります。

 

 

朝晩2回、10日分・・・

この薬が無くなる頃、本調子となってくれればと願っております。

コメント (12)
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