5回にわたり、概略的な和賀岩崎一揆について記して参りましたが、まだまだ参考とした資料や図書書籍もあったのですが、今回は北上市史をはじめ近辺の自治体史を主に活用という内容でもありました。
和賀岩崎の陣・・・というように南部家側が一揆鎮圧に軍勢を差し向けたという内容で、南部家側からの資料が主であったこと、次に取り組む際は伊達家側からの視点といった内容も取り入れながら調べを進められたらと思っております。
さて、慶長5年9月~翌6年4月(1600~1601)の和賀岩崎一揆、和賀氏旧臣や稗貫旧臣達が主ではありましたが、南部根元記(北上市史)、奥南落穂集(花巻市史)に和賀岩崎一揆に加勢した遠野武士の名が記載されている。
このことについては、以前から気になっており、特に「奥南落穂集、遠野家之次第」の項に慶長6年時と思われる遠野阿曽沼家臣等が記されており、さらに別項の「和賀家之次第」に和賀岩崎一揆に加勢した遠野武士9名が記されている。
和賀岩崎一揆加勢
・阿曽沼四郎広縄
・駒木内膳
・平倉刑部
・宇夫方八郎右衛門
・白岩左衛門
・畠中五郎八
・金沢与五郎
・細越与三郎
・栃内善兵衛
・まずは阿曽沼四郎広縄
遠野領主であった阿曽沼広郷の二男と記されているが、遠野の歴史においては、ほとんど語られることのない名でもあり、阿曽沼家系図においても、資料等をもとに書かれた内容に登場するにとどまっている。
・駒木内膳
阿曽沼旧臣にして、南部利直に仕えた駒木氏が歴史上存在しているが、主な人物として駒木豊前広道、子の隼人広三、同じく六兵衛広安、他に駒木一族として寛永4年(1627)以降に遠野領主、八戸直義に仕えた駒木氏が散見されるが、内膳については不明である。
・平倉刑部
上郷平倉に縁ある武士であることは想像でき、平倉刃金館の平倉新兵衛の近親者と思われる。始め新助・・・とある。
・宇夫方八郎右衛門
綾織宇夫方氏の一族であるのは想像ができるも宇夫方掃部、宇夫方八郎右衛門
、宇夫方多兵衛の3名が記され、和賀岩崎一揆加勢は八郎右衛門となっている。
所伝では宇夫方一族は、西風館氏が主流となるも後に両者共に没落という内容もあり、それでもその姓が記されていることに興味を覚える。
谷地館跡(綾織町二日町)
かつては遠野西側の盟主として名を刻む名族であった宇夫方氏。
江戸期は遠野南部家に仕え、代々文官としての才で多くの事績を後世に残している。
・白岩左衛門
遠野旧事記には白岩嘉兵衛の名が記されているが、こちらとの関係は不明。
・畠中五郎八
畑中氏は南部利直に仕え盛岡南部藩士となった家でもあり、その一族であろう・・・。遠野の城館跡関係資料には阿曽沼広郷時代、畑中館主のひとりに畑中五郎八の名がみえるが、どの資料から引用したものかは不明・・・。
・金沢与五郎・・・・勉強不足で不明
・細越与三郎
細越氏は南部利直に仕えた盛岡南部藩士の家系であり、与三郎は色々と遠野関連資料をみると与三郎敏広となりそうですが、当時の細越氏当主であると思われる。何故に南部家に対抗する和賀勢へ加勢となったのか、こちらもさらなる調べが必要でもあろう。
・栃内善兵衛
土淵栃内村の栃内氏、江刺氏支族ともいわれるが、善兵衛は伝承によれば盲目の兵法者で栃内地域の馬産振興に尽力した人物と語られており、何故に和賀一揆加勢なのか?いずれ栃内一族も南部利直に仕えているので、さらなる調べが必要と思われる。
早池峰山
六角牛山
画像は以前撮影したものです。
遠野から和賀一揆勢に加勢、早池峰山も六角牛山も瞼に焼き付けて出陣していったものと推察されますが、遠野から加勢した9名の武士は、どの時点から一揆勢に加勢したのだろう?
慶長5年9月であれば、横田城主、阿曽沼広長は軍勢を率いて南部勢として最上山形に参陣しており、一応、南部方としての態度であったはず、この前後に鱒沢広勝や上野広吉等による遠野制圧のクーデターが勃発したものと思われるが、この時にハッキリと内外に南部方としてその姿勢を示したことにもなりますが、これに反抗するグループが伊達家支援の和賀一揆勢に将来を託したものなのか?それとも、どちらに転んでも生き残りをかけて一族の一人を各々加勢させたものなのか?
当初、資料の記述の和賀岩崎一揆加勢・・・を見た時、南部勢として加勢した遠野武士が居たと勘違いしたこともありました。
旧横田城跡(松崎町光興寺)
昨年初冬の頃の画像です。
和賀岩崎一揆とは関係ありませんが奥南落穂集には、阿曽沼広縄の他に阿曽沼広重の名が記され、広長、広縄の兄弟であったと推察される内容ですが、伊達家家臣の気仙鮎貝氏関係の調べでは、鮎貝氏家臣の梅田氏は阿曽沼広重の末裔との情報も聞き及んでおり、記された内容の中には信憑性が極めて高い記述も盛り込まれている可能性があると思われる。
今回は、記された内容と共にいつもながらお茶を濁した簡略的な記述となりましたが、もう少し踏み込んで、いつか調べてみたいと思っております。
いずれ、一揆に加勢した人々の一族には敵方であった南部利直に仕えた方々もおり、このことも興味を覚えますので、いずれまた・・・ということで和賀岩崎一揆に関しては、ひとまず終わります。