「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

和賀岩崎の陣・四

2010-03-04 19:06:05 | 歴史・民俗

 慶長5年(1600)9月、旧和賀領主、和賀義忠の遺児、和賀忠親はかつての和賀氏旧臣等を以て挙兵、一連の和賀一揆の始まりである。

 まずはかつての和賀氏居城であった二子古城を占拠、またたく間に和賀郡の旧領のほとんどを南部氏から奪還し、稗貫郡の花巻鳥谷崎攻略を主たる目的として次の作戦が開始された。

 まずは、詳細は不明ながら9月13日とも20日ともいわれますが、田瀬、安俵(花巻市東和町)方面の攻撃が開始され、これは鳥谷崎城から繰り出す援兵を誘い出し、手薄となった鳥谷崎城を奪取する作戦だったといわれている。

 田瀬、安俵方面攻撃部隊は、伊達家臣の上郡山主水に率いられた浪人部隊約300余りが江刺郡(奥州市江刺区)人首(ひとかべ)から南部領境の覚間沢へ侵入し、これを占拠、その勢いのまま南部方、江刺長作隆直配下の小田代肥前が守る田瀬館を攻撃する。

 江刺長作とは、かつての葛西氏旧臣で江刺郡主で岩谷堂城主、江刺兵庫頭重恒の孫で、江刺氏が奥州仕置きで没落した後に、奥州仕置軍の将、浅野長吉に嘆訴して南部信直の家臣となり和賀郡内の土沢を領し新堀城を居城としていた。

 江刺長作は隆直といい、父は江刺重隆。

 

田瀬館跡(花巻市東和町)

 伊達勢の攻撃の前に田瀬館は落城寸前まで追い込まれたが、江刺郡の住人で旧千葉氏家臣の及川左近、左近の子で下河原若狭が手兵を率いて寄せ手の上郡山勢を攻撃し、これを撃退した。

 

田瀬湖

 当時はダム湖はありません・・・笑

 

 一方、安俵城は原帯主膳が守将であったが、伊達家臣、藤田右衛門が率いた浪人部隊が口内(北上市口内)方面から侵入したので、口内近辺で激戦が繰り広げられ、原帯主膳は討死するも新堀城から江刺長作、花巻鳥谷崎からの援軍も到着して、伊達勢は敗れ撤退となる。

 

 さらに密かに稗貫郡大迫(花巻市大迫)に侵入潜伏していた、かつての稗貫家臣で大迫城主であった大迫右近の子、又三郎、又右衛門兄弟は旧臣を集め、伊達勢の猪倉伯耆の鉄砲隊の支援のもと、約300の兵で南部方、田中藤四郎配下の石田数衛の守る大迫城を攻撃し、石田は討たれ、大迫城の奪還に成功する。

 

 一方、花巻鳥谷崎城は、「和賀岩崎の陣・弐」で記したように、旧和賀、稗貫勢の攻撃を城将、南部家重鎮の北信愛(松斉)が僅かな城兵でよく守り通し、和賀勢は二子城へ撤退、そして和賀岩崎城に籠城となるのですが、大迫は稗貫郡の北方に位置し、真先に南部勢の反撃に遭う位置付けでもあり、南の田瀬、安俵、そして稗貫郡内の本拠地たる鳥谷崎城が一揆勢の手に落ちなかったことで、後方からの支援が望めないことで孤立という状況で、しかも南部利直が最上山形から大軍を率いて戻ってくれば、ひとたまりもないと判断した伊達勢は撤退、大迫兄弟も夜陰に紛れて密かに城を逃げ出して、岩崎籠城軍と合流している。

 別説では大迫城は南部方、乙部氏によって攻められ再奪還されたともいわれる。

コメント (4)
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