ブログでリンクいただくカニさんがご紹介していた奥州市水沢区にある田んぼアートを見て来ました。
なかなかお見事!・・・という風景が広がっておりました。
ジャムおじさんも・・・笑
奥州市といえば日本一の前沢牛
「あ~~ぁ」・・・溜息・・・
天候なんかも考慮して一眼デジの出番ではないな・・・と判断しましてサブ機の位置付けであるリコーCX(コンデジ)を持参しましたが・・・・・・な、なんと、2枚写したらバッテリー切れで使いものにならず・・・
それもメインの田んぼアートではなく、櫓の遠景と石碑を撮っただけで・・・
仕方ないので携帯電話でのカメラで撮るも、5年モノの携帯電話なのでモヤッとした写りで、これまた用にならず・・・
同行の嫁様の携帯で写したモノを掲載ということになりました・・・
バッテリーチェックをしなかった自分の落ち度、しかもいつもは予備のコンデジを持ち歩いているのに今日に限っては忘れてしまっている現実、自分自身が腹ただしい・・・
悔やんでも仕方なし、奥州市まで来たことにより、予てから考えていた〇十肩、〇風に効くと云う、なんともオヤジに都合の良い温泉を見つけていたので、そちらに移動して湯っこを堪能することに・・・・・
奥州市衣川区・・・黒滝温泉
無色透明ながら肌にまとわりつくヌメリがあって、スベスベ感がある良い温泉でした。
施設は、こじんまりしてますが、サウナも完備で私としては十分な温泉施設でした。
ということで・・・
水沢区の田んぼアートの場所は・・・
胆沢蝦夷約1千5百人を率いた阿弖流為(アテルイ)が紀古佐美、率いる朝廷軍、約4千人と戦い、勝利した戦い「巣伏の戦い」の主戦場跡といわれる。
アテルイに関しては、インターネットの普及と共にその存在というか人気が加速した雰囲気がありますが、2002年(平成14年)は、アテルイ没後1千2百年の節目ということで、当時の水沢市等の行政や民間も含めて古代東北の英雄「アテルイ」を顕彰する動きが活発化し、ちょっとしたアテルイブームでもあったと記憶しております。
また、1999年発行、2002年に文庫化された高橋克彦氏の長編歴史小説「火怨」による影響も少なからずあったと推測される。
陸奥を侵略する朝廷軍に立ち向かい、数々の勝利をあげ、最後は降伏して京に送られ朝廷によって河内国(大阪)で処刑された古代東北の英雄アテルイ、まさに東北、岩手の誇りというか気骨ある精神の象徴として、町おこしやら観光にも取り入れられた経緯がありますが、それまでは朝廷に反抗した悪人の代表がアテルイとされ、悪路王などと称されたりもした経緯があった。
これは中央からみた歴史認識そのもので、東北側からの歴史は無視され・・・というか語られず・・・という流れの中にあったものですが、近年、再評価というか検証される場面も多くなったことで、逆に英雄として美化される傾向やら創作される内容もあるのも事実である。
史実というか史料には、すなわち日本書記をはじめとする「六国史」に、アテルイの名が登場は4度とされている。
無論、アテルイの年齢も容姿、思想も、そしてどのような立場であったのか具体的な記述は無いに等しい。
アテルイ登場の初見は延暦8年6月3日(続日本紀)の、まさに「巣伏の戦い」で、最後は延暦21年(802・日本紀略)に胆沢城にて坂上田村麻呂に母禮(モレ)と共に500余人の蝦夷と共に降伏し、京に送られた後、モレと共に河内国で処刑と記されているのみである。
以前、ネットで知り合った方に地元郷土史家の方が自主出版されたアテルイを主に古代東北について詳しく検証された書籍を譲り受けたことがあって、一度はツラツラと読み終えたのですが、今度はしっかりとじっくり読破してみたいと思っております。
ブームは去ったというか静かになった今だからこそ、あらためて触れてみたい、そんな思いです。
此処は跡呂井(あとろい)地区。
アテルイに通じる地名と考察されているらしい・・・。
そういえば奥州市前沢区には「母体(もたい)」という地区があって、其処はアテルイの盟友、母禮(モレ)の本拠地だったところと云われている。
今回、カメラ関係不調につき、稲刈前に今一度訪ねて画像に収めたいと思ってます・・・