遠野市内をはじめ隣接市町村の山城等の城館跡探訪はオフシーズンですが、積雪がほとんどない県南地区や三陸沿岸地区の城館跡はベストシーズン、遠野でのオフに合せて少しでも他地域の城館跡を見てみたいということで、予てから気になっていた陸前高田の米ヶ崎城を訪ねて参りました。
米ヶ崎城
広田湾に若干突き出た半島に築かれた海の要害
葛西領気仙郡旗頭である千葉氏(浜田氏)の主城
空堀跡
県道38号広田~高田間の県道沿い近くに残されているかつての空堀跡の形状
海側突端より現八幡社、本丸、二の郭、三の郭・・・さらに県道沿い、県道、JR大船渡線を越えての山野も城域といわれ、広大な城であったと思われます。
本丸から米ヶ崎八幡が鎮座する平場方面
本丸付近の空堀
幅25m~30mに及ぶ大きな空堀
突端部分、八幡社側の帯郭
米ヶ崎八幡神社
八幡社下の郭
本丸
勢力と城館の大きさは、必ずしも比例しないともいわれるが、米ヶ崎城に関しては気仙郡千葉一族の旗頭に相応しい規模を誇ると正直思いました。
しかし、実際にじっくり見れたのは海側の突端部分、米ヶ崎八幡とその周囲の郭、そして半島部分の最高点と思われる本丸跡付近が主でもありました。
山野の中央付近は住宅地、畑等の農地で、かつての形跡を若干確認することはできますが、道路や宅地となったり、藪と畑といった組み合わせで探訪には少し難儀したのも事実でもありました。
しかしながら、遠野では絶対見られない海に面した城跡、三方を海に面し、斜面には3段程度の帯郭が配置されていますが、最下部は海面も至近ということで小船等を寄せれば城に入ることも可能ということで、とにかく珍しいものを見たという思いが強いものとなっております。
八幡神社から広田湾(太平洋)
千葉氏(浜田氏)
鎌倉時代初頭、葛西氏領に千葉一族が何家が入部したと伝えられるもその詳細は不明とされる。
気仙郡の千葉氏は、最初本吉郡南部に入部した千葉氏が兄弟の一人を気仙郡へ分立させたことが始まりと伝えられ現在の陸前高田矢作辺りといわれる。
これが矢作千葉氏であり、矢作氏は高田、広田方面に勢力を広げ、さらに後に浜田・高田・長部となる兄弟を各地に分立させ、気仙郡内の一大勢力へと成長していく。
南北朝争乱が終焉して間もなく、浜田氏、長部氏に亀裂が生じ、一族間の争いとなり、浜田氏が長部氏を破ってその勢力下へ置くと高田氏の後継問題に付け入り浜田氏が養子を送り込んで実質的に高田氏も把握する。
永正元年(1504)、時の浜田氏当主、浜田基継は磐井郡大原山吹城の大原信明と気仙矢作で戦っている。
この戦いでは、浜田氏の宗家矢作氏は、大原方となった模様で浜田氏が敗れ、浜田氏は一時成りを潜めた時代が続くことになったと思われる。
浜田広綱の乱
戦国末期、浜田氏当主、浜田安房守広綱時代に気仙郡千葉一族の旗頭としての地位を確固たるものとしたと推測されますが、永禄3年(1560)、浜田広綱は惣領葛西氏に背命して騒擾し、熊谷直賢らと交戦したが、熊谷勢の必死の反撃で降伏。
この頃、高田城から米ケ崎城へと拠点を移し、軍拡を進め、浜田氏の軍事力は最大となり、天正15年、本吉重継と不和となり、本吉郡に侵攻したが、葛西太守の仲裁で撤兵する。
しかし、翌天正16年春、再度本吉郡へ侵攻、浜田勢は防衛の主力である気仙沼熊谷勢と篠峯山麓で激戦を繰り広げるも、熊谷勢の奮戦の前に終始劣勢となり徐々に戦線か本吉郡から後退、ついに8月に浜田広綱は降伏した。
この一連の合戦を「浜田広綱の乱」と称される。
千葉安房守広綱(浜田安房守広綱)は、熊谷氏との戦いで敗れ惣領葛西晴信により浜田領が熊谷氏をはじめ浜田氏との合戦で功のあった諸将に分け与えられ、没落する。
広綱は文禄年中に病没と伝えられる。
千葉安房守の墓
米ヶ崎城本丸跡、北東端に千葉安房守(浜田)の墓所がある。
安房守、安房守夫人、家臣の大和田掃部、それともう一基
家臣の苗?姓・・・読めなかった・・・汗
なお、米ヶ崎八幡神社関連で記名されるものには大和田姓が書かれていた。
また、陸前高田市内には大和田姓が確認できる。
別説では大和田掃部は安房守配下の広田城主で、豊臣政権時代初頭、深谷で討死或いは佐沼城で討死ともいわれる。
子息の右馬亟は難を逃れ遠野に流浪、潜伏していたともいわれる。
浜田広綱の弟とされる浜田喜六(気仙上有住城主)の存在、また遠野阿曽沼氏に仕え、八戸から八戸直義が遠野へ入部前に南部利直より500石を給されていた浜田彦兵衛の存在等、かなり気になる内容なのですが、浜田を名乗ること自体、今回探訪した米ヶ崎城の浜田氏に何かしら無関係ではないと思われてならない・・・。
気仙千葉一族の高田氏の居城、高田城(東館)、後に浜田氏が米ヶ崎城へ移るまで居城としていたともいわれ、高田城跡も探訪しなければと考えているところです。
ソテツ
岩手県では一番温暖な地である陸前高田、遠野ではほとんどみられない木々が至るところで見られる。
住田の世田米辺りまでは日陰等に積雪がみられましたが、陸前高田市に入ると高い山以外は雪が皆無、たまたま本日は南寄りの風が吹いて少し気温が上がったせいもあるかもしれませんが、高田の風は柔らかく、春先のような気候・・・
こちらも無論、屋外の遠野ではほとんどみられない・・・というより見たことがない。
椿
終わりかけてました。
本丸の番犬
・・・
・・・
吠えない番犬でした・・・爆
そして心地良い汗をかいた後は・・・・
・・・
・・・
温泉
かなり久しぶりの五葉温泉
しゃくなげの湯
いい湯っこでした・・・。
しっかし、長文打って疲れませんか?
関心します。
雪がないのにも・・汗
ブログ編集、特に歴史ものなら画像の編集から始まって、参考書籍や資料をみながらの打ち込みで、2時間以上はかかりますね・・・汗
中には半日、4時間もかかったものもあったと記憶しております。
編集途中で変なところをクリックしてしまって、その努力が水の泡という場面も何度もあって、やり直しにさらに数時間、確かに疲れます。
そして自分でも力作だと思ってエントリーしてもコメントがない、反応がない時もあって、さらにガックリというのも多々あります。
マイナーな内容でもありますから仕方ないと割り切りながらも歴史ネタはやめられません・・・笑
岩手の内陸では滅多にみることのない植物、なんか南国にでもいるような錯覚も覚えました。
最近までソテツとかも知らなくて似たような木々をみれば、みんなヤシの木だと思ってましたから・・・汗
そういえば東○温泉、リニューアル工事も終了して再開しているようですね。
早いうちに湯っこを堪能しに行かねばと思ってます。
結果的に本になる、ならないは別として、それを目標として、テーマを決めて、構成を決めて、そして部分を書いていくのです。
そうすると、まとまったものになって、ご自身も満足感があると思いますよ。
館跡も行って感想を述べておしまいではなく、もう一歩「研究」という分野に踏み出してみてはいかがでしょうか。
あ、でもブログってそこまで硬いものじゃないんですよね。スミマセン。
以前共に史跡探訪したり、色々と郷土史関連について語りあった頃の夢はまだもち続けながらも、現実との狭間で本腰を入れるには、もう少し先といったところです。
2時間前後といっても、歴史ネタのみで、これは月に一度あるかないかですから・・・後のブログエントリーは1時間もかかりませんしね。
8年開設していたウエブサイトも閉鎖、気持ち的には身軽になった思いですが、その時期が来たら大いにはじけると思います。
いずれ今後もご教授をいただければと思ってますのでよろしくお願いします。
コメント0は、同じく悲しいけど、自分勝手な日記なんだ!って思うようになりました(悲し)
人それぞれ興味?感性?が違うし、しかたのない事ですよね。
でも、とらねこさんの『史跡探訪』自分の足で歩いて調査して写して書いてって、凄いと思います。
絶対×2カニは無理なので・・尊敬の一言です!
確かにブログは日記的に良いものだとは思います。
過去ログなんかみると、あの頃はこんなことしていたとか、イベントがあったとか思い出されて良い面も多々あります。
しかし、全世界に公開されていることを忘れてはいけません。
自分のこと、家族のこと、その時の思いを書きとめる日記とはいえ、全く性質は異なりますからね。
コメントいらないならブログは不要だと小生は思うタチで、誰かに賛同なり意見をいただく、或いは情報をいただく、本心はこういった人との関わりも実は求めていることだと思います。
ですからカニさんの本心は正直な気持ちだと思います。
カッコつけて自身の日記だからコメントはいらないとか、コメント停止している人もおられますが、これは他人の日記の押し付けだといつも考えております。
と・・・行っても歴史なんかの見解や考察は、好きでないとコメント返しは望めないし、書いた側の自己満足という意味合いが強いですがね・・・・笑
では、逆にお聞きしますが、コメントがつけられる状態であっても、他人の日記の押し付けにはなりませんか?
ちょっとつぶやいてみたいなとか、その程度でも良いんじゃないでしょうか。
要は、見たい人は見ればいいし、見たくない人は見なければいい。それだけのことだと思います。
手厳しいご意見ですね・・・。
あくまでの小生の考え方です。
稲用さんのスタイルを否定するものではありませんし、稲用さんのサイト等で気になる記事やら内容があればメールで問い合わせも可能で、また他の方々とのやり取りがそれで済むのであればそれにこしたことはないと思います。
また稲用さんは知らない仲でもありませんので、小生も何か記事や内容で気になること、興味あることはメールで問い合わせをすると思います。
ブログ等、日記的意味合いも含めて誰かにみてもらいたい、できれば反応があればなおよろしい・・・が小生の本音です。
カッコつけてとかの文言は小生の言い過ぎ、配慮不足であったたことは認めます。すみませんでした。
コメント欄があること、これを閉じる必要は迷惑コメント防止とか心無い人の書き込み抑制以外は閉じるべきではないと思うのが小生の考え方です。
コメントがつけられる状態でも、他人のの日記の押し付けという考え方、これは良く考えてみればその通りかと思いました。
見たくなければ見なければ良い、これもその通り、でもこれと同じでコメントしたくなければしなくて良いと同じかもしれませんが、ゆはりコメント欄を開放しているのであれば、コメントがほしいが小生の気持ちです。
これは正直な気持ちです。
重ねて申しますが、これは小生の考え方です。
どんなスタイルでも良いと思いますし否定はしませんが、小生とのスタイルとは違うというだけですので、お含みおき願います。
歴史関連の記事の場合、マイナー記事になってしまうと、前提としてそれを知っている人の母数が少ないので、歴史に興味が無い人は、コメントのしようがないのが実情ではないでしょうか。
だからこのブログも歴史の話の後に他の話題(猫や風呂など)を連続して書いておくと、歴史ではなくそっちに対してコメントがついてしまいます。
コメントを付ける人は、それしかやりようがないのでしょう。
歴史系でコメントが欲しい場合は、メジャーな分野、母数が多い分野にするしかないような気がします。織田信長とか、坂本龍馬とか。
ただそれらは、我々の志向とは違うんですよね。
私もインターネットを始めてもう十何年も経ちますが、その間、阿曽沼氏を調べている人は、とらねこさんしか出会っていないです。
あとは地域の歴史に詳しい古老とかは、多分インターネットとは無縁の世界に生きているんでしょうね。
阿曽沼氏に関しては、インターネット上ではとらねこさんが一番お詳しいと思いますので、是非今後もさらなる研究を続けていってください。私も微力ながら応援致します。
コメントうんぬん・・に関しては、色々と失礼いたしました。
決して稲用さんのスタイルを否定するものではありませんし、他人それぞれのスタイルがあるということで、思慮不足、言い過ぎた部分があったこと、このことは反省しているところです。
さて、小生も歴史関連をネットで公開して8年余り、本来はHPで展開させ、中身はともかくそれなりに遠野史関連のネット世界では一応知られる存在になったと自負しておりました。
その反応は稲用さん同様、核心の部分はメールでいただく場面も少しはあって、色々とご意見やらご質問、時には反論もあったりとたいへん勉強にもなりましたが、それでも掲示板も設置しており、こちらでは訪れる方々との交流もあったりと、サイトの内容と共に人との関わりというものも勉強させていただいた思いでもあります。
さらにもう少し砕けた内容も・・・・ということでブログを開設しましたが、当初はHPの内容更新の告知も含めてサブ的な役目のはずが、こちらがメインになり、遠野話題が主となっていることが事実でもあります。
おかげさまで、ブログでは遠野発信の仲間にも恵まれ、また稲用さんや藤九郎さんといった昔からの歴史仲間との交流も未だに続いていること、こういった点でも今では欠かせないものとなっております。
今後・・・といってももうしばらくは無理そうですが、HPの再開、さらに稲用さんにもご教授いただきながら、本格的な郷土史サイトをまた開設したいという思いはあります。
反応とかそんな小さいことは気にならないくらい集中したいとも考えておりますので、その際は色々とよろしくお願いします。
今はまずは城館跡探訪を主に細々と郷土史関係には関わりを持ちながら、来るべき時に・・・と思ってます。
ご意見等ありがとうございました。
城跡に大和田掃部の子孫が建立したという、千葉安房守らの墓石がある事は知っていましたが、こんな感じになっていたんですね。空堀跡なども結構残っているんですね。
例の慶長六年の気仙境平田の合戦で討死した、浜田喜六(三左衛門)は、安房守広綱の弟とも言うんですが、私もいろいろ調べてみましたが素性がよく解らないんですよね。同じ千葉姓であり、葛西時代、上有住城主だった千葉内膳盛行に関係ある人物には違いないんでしょうが、阿曾沼広長亡命事件には謎が多すぎます。でも、そこが面白いところでもあるんですけどね。
こちらこそご無沙汰しておりました。
高田の米ヶ崎城跡は、なかなか見応えのある城跡だと思いますし、何かの機会を見つけて再訪もしたい城跡でもあります。
浜田喜六・・・浜田安房守の弟説やら二本松浪人説とか?・・・しかし、気仙千葉一族に関係する人物というのが一番強いのかもしれませんね。
このことも含めて色々と謎多きこともあって、難しいのが歴史なのかもしれません。
ただ、『新遠野物語』には、記述や考証に誤りがあるところが幾つかあるので、何処まで信じていいのか悩ましい所です。
そういえば、天正七年の遠野陣で、千葉安房守とともに攻め込んで戦死したといわれる、新沼内膳・只野民部・及川土佐の三将を、通説の気仙郡では無く、宮城県下の各館主として館名を記述したホームページも見たことがありますので、これももしかしたら、きちんとした源典があるのかなと、私としては一つの可能性として非常に気になるんですよね。
浜田喜六の二本松浪人説の原典は不明といいますか、調べたことはありません。
吉田先生の書籍の内容では、その出所不明の記事もあったりして疑問箇所も実は案外多いという指摘もあったりします。
例えば遠野郷八幡宮に関して八戸の櫛引八幡の分霊を遠野へ祀ったという内容とか?・・・しかし、江戸期における遠野南部家やらその時代考証に関しては実際に幕末期を生きた人々からの聴取やらで真実味がある内容もあったりとやはり大きな参考とはなっております。
また遠野横田に攻め入り逆に帰り討ちにされたと遠野で語られる気仙郡の諸将関係、宮城県下での館主との関連も不勉強につきわかりかねますが、おそらく宮城県ではなく現岩手の気仙郡のことかと思っております。
いずれ三陸沿岸方面、特に旧気仙郡の城館跡探訪にも力を入れたいと考えておりますので、その際はご助言やご指導をいただければ思っております。
よろしくお願いします。