遠野祭りもいよいよ・・・そんな中、防災訓練や台風等の災害活動、さらに個人的にブログ画像展開催といったことで、少しお疲れモード・・・同僚や知人からすれば、甘いとかそれほどでもないでしょうと、笑われることでもありますが、ここは史跡を訪ねて、温泉にでも浸かって一日リフレッシュが必要と判断しまして、今回で4度目となりますが、一関市東山町の某所を訪ねて参りました。
右大臣、菅原道真公夫人と伝えられる吉祥女の墓所と伝承される菅公夫人の墓・・・・
田河津竹沢の母体道路の傍らに、昔から「菅公夫人の墓」として地域の人々に親しまれている古い碑がある。口碑によって書かれたと思われる書き上げや、大正2年(1913)発行の田河津村誌によると次のように伝えられている。
「延喜元年(901)正月25日、右大臣の顕職にあった菅原道真が太宰権師に左遷されて筑紫に下るとき、その一族も諸所に配流されたが、御簾中(紀長谷雄卿の娘)は3人の子どもと従臣菅原山城を伴って東奥胆沢郡へ落ちてきた。同郡藤杜郷清水ヶ在長者軍治兵衛尚利は4カ所に配所を設けてそれぞれ住まわせることにした。母君の住んだところを母体、第一姉君のところを上姉帯、第二姉のところを下姉帯、弟君菅秀才敦茂の配所の地を中野と名付けたという。延喜3年2月25日、菅公が筑紫で亡くなられたという知らせが。家臣大江麻呂によってもたらされると、御台所は悲しみのあまりに病を発し、同6年9月12日母体で亡くなられた。42歳であったという。菅原山城がその霊を祀った墓地がすなわち今の田河津竹沢で、石碑一基五輪の塔2基が残っているが、文字はほとんど判読できないほどになっている。碑の近くには山城の屋敷跡及び山城が使用したと伝えられる井戸がある。その子孫といわれた菅原の姓を名乗る家は10数件有り、この一族は古来梅を食べない風習がある。」
平成6年この墓の存在を知った太宰府39代宮司西高辻信良氏が門外不出とされる梅の木を菅公夫人の墓に自ら植樹され、続いて鎌倉荏柄天神社、平成9年には京都北野天満宮からも梅の木が贈呈された。これで日本三大天満宮といわれるところから梅の木を贈呈されたことから、この縁をまちづくりに活かそうという気運や、これを機に菅公夫人の墓周辺を整備し史蹟の保存と活用を図ろうという気運が高まり、現在「菅公夫人の墓周辺整備計画」が進められている。
すなわち、菅原道真公の夫人が道真が九州大宰府に左遷された後、三人の子と従者と共に奥州へ下り、胆沢の地に落ち着いたという。
延喜3年(903)、道真公の訃報がもたらされると病に伏して、同6年9月12日、奥州市前沢区母体で逝去と伝えられる。
私が訪ねた9月13日、昨日12日が管公夫人の命日となりますが、まったくこれに併せて出かけたものではございません。
今回が4度目ながらも命日は知りませんでした。
墓碑があったかつてのお堂
大宰府天満宮から贈られた紅梅
平成17年完成の墓碑堂
墓碑
あくまでも伝説といった内容ながらも、具体的に伝承されていること、大宰府天満宮、北野天満宮といった道真公縁の社もその存在を認めている事、これ以上の折り紙付きはないのではないでしょうか。
悲しくも浪漫ある伝説、大切に受け継がれていくことを期待しております。
古代東北の英雄、阿弖流為、母禮がこの胆沢の地で活躍した百年後、そして安倍貞任、宗任兄弟、さらに源義家が駆け抜けた時代の約150年前の出来事ということになります。
さて遠野との関わりは・・・・
残念ながら歴史的に見出すことはできませんが、新お堂はプロフェッショナル、菊池恭二棟梁率いる社寺工舎によるものです。
右大臣、菅原道真公夫人と伝えられる吉祥女の墓所と伝承される菅公夫人の墓・・・・
田河津竹沢の母体道路の傍らに、昔から「菅公夫人の墓」として地域の人々に親しまれている古い碑がある。口碑によって書かれたと思われる書き上げや、大正2年(1913)発行の田河津村誌によると次のように伝えられている。
「延喜元年(901)正月25日、右大臣の顕職にあった菅原道真が太宰権師に左遷されて筑紫に下るとき、その一族も諸所に配流されたが、御簾中(紀長谷雄卿の娘)は3人の子どもと従臣菅原山城を伴って東奥胆沢郡へ落ちてきた。同郡藤杜郷清水ヶ在長者軍治兵衛尚利は4カ所に配所を設けてそれぞれ住まわせることにした。母君の住んだところを母体、第一姉君のところを上姉帯、第二姉のところを下姉帯、弟君菅秀才敦茂の配所の地を中野と名付けたという。延喜3年2月25日、菅公が筑紫で亡くなられたという知らせが。家臣大江麻呂によってもたらされると、御台所は悲しみのあまりに病を発し、同6年9月12日母体で亡くなられた。42歳であったという。菅原山城がその霊を祀った墓地がすなわち今の田河津竹沢で、石碑一基五輪の塔2基が残っているが、文字はほとんど判読できないほどになっている。碑の近くには山城の屋敷跡及び山城が使用したと伝えられる井戸がある。その子孫といわれた菅原の姓を名乗る家は10数件有り、この一族は古来梅を食べない風習がある。」
平成6年この墓の存在を知った太宰府39代宮司西高辻信良氏が門外不出とされる梅の木を菅公夫人の墓に自ら植樹され、続いて鎌倉荏柄天神社、平成9年には京都北野天満宮からも梅の木が贈呈された。これで日本三大天満宮といわれるところから梅の木を贈呈されたことから、この縁をまちづくりに活かそうという気運や、これを機に菅公夫人の墓周辺を整備し史蹟の保存と活用を図ろうという気運が高まり、現在「菅公夫人の墓周辺整備計画」が進められている。
すなわち、菅原道真公の夫人が道真が九州大宰府に左遷された後、三人の子と従者と共に奥州へ下り、胆沢の地に落ち着いたという。
延喜3年(903)、道真公の訃報がもたらされると病に伏して、同6年9月12日、奥州市前沢区母体で逝去と伝えられる。
私が訪ねた9月13日、昨日12日が管公夫人の命日となりますが、まったくこれに併せて出かけたものではございません。
今回が4度目ながらも命日は知りませんでした。
墓碑があったかつてのお堂
大宰府天満宮から贈られた紅梅
平成17年完成の墓碑堂
墓碑
あくまでも伝説といった内容ながらも、具体的に伝承されていること、大宰府天満宮、北野天満宮といった道真公縁の社もその存在を認めている事、これ以上の折り紙付きはないのではないでしょうか。
悲しくも浪漫ある伝説、大切に受け継がれていくことを期待しております。
古代東北の英雄、阿弖流為、母禮がこの胆沢の地で活躍した百年後、そして安倍貞任、宗任兄弟、さらに源義家が駆け抜けた時代の約150年前の出来事ということになります。
さて遠野との関わりは・・・・
残念ながら歴史的に見出すことはできませんが、新お堂はプロフェッショナル、菊池恭二棟梁率いる社寺工舎によるものです。
もしこの逸話を知っていたなら更に違う視点で見学
できたのだろうと思ったものでした。
先日の新聞だったかテレビだったかにでてましたね~
確かに色々あった週でしたから。
私は今宵から家族と共に遠野から離れます。
思い出作りとか、墓参りとか・・・・コース不明の旅に出ます。
留守中をヨロシクお願い致します。
確かに色々あった週でしたから
思い出作りとか、墓参りとか・・・・コース不明の旅に出ます。
留守中をヨロシクお願い致します。
このことが知られるようになったのは、ここ数年かと思いますが、知られているようでそれほどでもないこの分野もご存知とは続石です・・・笑
コメントが遅くなりましたが、了解でやんす。
ご家族と共に楽しい旅となることをご祈念しております。
お気をつけて帰ってきてください。
今回もご教授ありがとうございます。
墓石等からその年代を知る、これも今後必要不可欠な学びでもありますね。
今後も色々とよろしくお願いします。