まずはお知らせ・・・
11日のミニぶれんど会・・・時間・午後6時30分~
場所・居酒屋酒蔵(待月)
以上、ご参加よろしくお願いします。
野田一揆・・・・弘化4年三閉伊大一揆
江戸時代の弘化4年(1847)、三陸沿岸部の百姓衆、野田村の一揆は寄々の村々の百姓を吸収して三陸沿岸を南下、弘化4年11月20日頃に発生した一揆は27日には大槌に至った。
大槌や山田の代官所からは既に24日、遠野に通報が入っていたが、沿岸各地の代官所等での一揆解散の説得も失敗、盛岡藩当局としては、なんとしても仙台領への越境だけは阻止しなければならないが至上命令だったようです。
(釜石の唐丹は仙台藩領)
土淵境の峠のある山々
一揆勢は当時盛岡藩でナンバー2でもある遠野南部家へ訴え出、盛岡へ取次ぎを懇願するという目的で、大槌から遠野へ進路を変更、和山や新山の峠を越え、さらに川井の百姓達も合流して遠野へ押し寄せてきた。
その数、1万2千人・・・1万五千とも4万ともいわれますが、前者の1万~1万5千の間の数値が正しいようです。
遠野城下はまさに臨戦態勢、甲冑に武器を携える遠野武士達が慌しく城下を駆け回り、上組町や早瀬川原左岸には幕を張った陣が次々と現れたという。
駒木村や松崎村、光興寺村、土淵界隈の村々では住民達が山へ隠れ、新張村の人々は早瀬川を渡って城下に避難してきたともいわれます。
12月2日、一揆勢は遂に早瀬川原右岸にその姿を現したという、新張側は一揆勢1万を超える百姓達に埋め尽くされたといいます。
早瀬川原
画像は上早瀬橋付近ですが、現在の橋の少し下流側に盛岡藩、遠野南部家の軍勢が陣を張っていたようです。
遠野南部家家老加判の新田小十郎長辰が一揆勢との交渉役となり、盛岡藩、遠野当主、南部弥六郎の指示の下、交渉は成功、一揆側の訴えはほぼ認められたといいます。
現白幡神社・・・一揆側との交渉の場となった川八幡とは今の白幡神社だろうといわれている。
上組町~早瀬、新張方面・・・一揆勢は夜になると八幡山界隈、飯豊、糠前まで移動、野宿したといわれる。
一揆勢は統率もとれ、一揆にありがちな打ち壊しも起らず、遠野南部家では百姓達の帰りの路銀を提供、資金は村兵、赤羽根屋、両川、佐々徳屋、館屋、松兵衛、佐五兵衛、外女郎屋四軒が工面したとかで、一族縁者知人まで動員して2万2千貫、1文銭で2千万枚という膨大な数を一晩で準備、しかも百文ずつ藁に通す作業だったと伝えられます。
また、家中の侍ほとんどが戦仕度で警戒、さらに町人も夜回りや警備の任につき、城下には1千人の軍勢、この城下方のまかないは大変だったようで、女達はこれらの飯炊きに借り出され、農村でも白米に精米する作業に従事、11月28日から12月6日までの8日間で、560石の米が消費されたそうです。
12月5日、百姓達は遠野の町見物後の夕方には遠野を去り、翌6日朝には誰も居なくなったということで、軍勢の引き上げでもこれほど見事なことはないと後々まで賞賛されたという・・・・
詳細は「遠野南部家物語」をご覧ください。
こちら
おまけ
遠野北小学校の授業参観、高学年は薬研太鼓の引継式ということで、末娘の最後の勇姿を画像に収めようと出かけましたが、時間を勘違いしてしまった。
少し遅れて到着、既に太鼓は始まっていたが、娘の出番も終っていた・・・涙
残念・・・。
11日のミニぶれんど会・・・時間・午後6時30分~
場所・居酒屋酒蔵(待月)
以上、ご参加よろしくお願いします。
野田一揆・・・・弘化4年三閉伊大一揆
江戸時代の弘化4年(1847)、三陸沿岸部の百姓衆、野田村の一揆は寄々の村々の百姓を吸収して三陸沿岸を南下、弘化4年11月20日頃に発生した一揆は27日には大槌に至った。
大槌や山田の代官所からは既に24日、遠野に通報が入っていたが、沿岸各地の代官所等での一揆解散の説得も失敗、盛岡藩当局としては、なんとしても仙台領への越境だけは阻止しなければならないが至上命令だったようです。
(釜石の唐丹は仙台藩領)
土淵境の峠のある山々
一揆勢は当時盛岡藩でナンバー2でもある遠野南部家へ訴え出、盛岡へ取次ぎを懇願するという目的で、大槌から遠野へ進路を変更、和山や新山の峠を越え、さらに川井の百姓達も合流して遠野へ押し寄せてきた。
その数、1万2千人・・・1万五千とも4万ともいわれますが、前者の1万~1万5千の間の数値が正しいようです。
遠野城下はまさに臨戦態勢、甲冑に武器を携える遠野武士達が慌しく城下を駆け回り、上組町や早瀬川原左岸には幕を張った陣が次々と現れたという。
駒木村や松崎村、光興寺村、土淵界隈の村々では住民達が山へ隠れ、新張村の人々は早瀬川を渡って城下に避難してきたともいわれます。
12月2日、一揆勢は遂に早瀬川原右岸にその姿を現したという、新張側は一揆勢1万を超える百姓達に埋め尽くされたといいます。
早瀬川原
画像は上早瀬橋付近ですが、現在の橋の少し下流側に盛岡藩、遠野南部家の軍勢が陣を張っていたようです。
遠野南部家家老加判の新田小十郎長辰が一揆勢との交渉役となり、盛岡藩、遠野当主、南部弥六郎の指示の下、交渉は成功、一揆側の訴えはほぼ認められたといいます。
現白幡神社・・・一揆側との交渉の場となった川八幡とは今の白幡神社だろうといわれている。
上組町~早瀬、新張方面・・・一揆勢は夜になると八幡山界隈、飯豊、糠前まで移動、野宿したといわれる。
一揆勢は統率もとれ、一揆にありがちな打ち壊しも起らず、遠野南部家では百姓達の帰りの路銀を提供、資金は村兵、赤羽根屋、両川、佐々徳屋、館屋、松兵衛、佐五兵衛、外女郎屋四軒が工面したとかで、一族縁者知人まで動員して2万2千貫、1文銭で2千万枚という膨大な数を一晩で準備、しかも百文ずつ藁に通す作業だったと伝えられます。
また、家中の侍ほとんどが戦仕度で警戒、さらに町人も夜回りや警備の任につき、城下には1千人の軍勢、この城下方のまかないは大変だったようで、女達はこれらの飯炊きに借り出され、農村でも白米に精米する作業に従事、11月28日から12月6日までの8日間で、560石の米が消費されたそうです。
12月5日、百姓達は遠野の町見物後の夕方には遠野を去り、翌6日朝には誰も居なくなったということで、軍勢の引き上げでもこれほど見事なことはないと後々まで賞賛されたという・・・・
詳細は「遠野南部家物語」をご覧ください。
こちら
おまけ
遠野北小学校の授業参観、高学年は薬研太鼓の引継式ということで、末娘の最後の勇姿を画像に収めようと出かけましたが、時間を勘違いしてしまった。
少し遅れて到着、既に太鼓は始まっていたが、娘の出番も終っていた・・・涙
残念・・・。
ご参加ありがとうございます。
ミニぶれんどとはいえ、賑やかになりそうです。
よろしくお願いします。
残念とはなんだー(`ヘ´) !!プンプン!
さぞかし格好良かったでしょうね┃電柱┃_・)ジー
遠野の風景は綺麗だね~(*´▽`)○ゝ┏━┓~~且o(´ー`*) ノホホーン♪
一揆の先導者は誰だったのでしょうか?
この頃であれば先導者は打ち首覚悟だったのでしょうが・・栗橋村の三浦命助などの名前を聞いたことがありますが・・当時筵に小○と書いて掲げたとか・・
さまざま以前に聞いたことが・・?
まずは遠景ながら宝飯邸が見える画像使用、すみませんです。
この弘化4年の一揆の首領格は小本村のの弥五兵衛とあります。
他にも先導者が複数いるようですが、花輪村の作左衛門、野田村の甚五六兵衛、豊助、千徳村の利兵衛・・・。
一時的に遠野南部家の助力によって目的が達せられたかにみえた一揆でしたが、またもや藩の新税、増税の政策となり、弥五兵衛は再度立ち上がるべく地方を遊説中捕らえられ獄死。
嘉永6年の大一揆もまた海岸通りから発展、この時の首領が三浦命助でもあります。
11日夜、よろしくお願いします。
残念でした、小学生最後の勇姿でしたが・・・涙
の話ですね。
鈴木久介先生がまだまだ元気だった頃、仕掛けた勉強会を思い出しますね。
3年がかりの最初の年でした。
まず過去を知ろう!と言うことで遠野の歴史を辿る講義を5度?ほど博物館をお借りしてやりましたね。
懐かしくも遠野を知る上でいい体験が出来ました。
この手の事業は先細りになるんですが、是は毎回人が増えていった貴重なじぎょうでした。
まだ本になる前のゲラをコピーして皆で勉強したことを本当に懐かしく思い出します。
仕掛けの一環だったとはいえ、勉強会やら知識を高める行い、頭が下る思いです。
私は若い頃からこうした活動には関らないで静かに過ごしていたため、その本質はわかりませんが、郷土史を研究された先人との関わりも皆無だったこと、これはたいへん悔やんでおります。
地域の歴史好きな古老との語らい、まっ一方的にまくし立てられる側ですが、これもひとつの勉強でもあると実感しております。
今のところこんな具合で、ほぼ単独で自己満足といった環境でもありますが、インターネットというひとつの流れに乗れたということは自分でも評価しており、このことでの出会い、仲間を得たこと、これに尽きます。
私も何事にもそろそろ落ち着いてきた昨今、勉強会や意見交換、情報を得る場があれば、都合をつけて出ていきたい、そんな思いです。
永遠の日本のふるさと遠野・・・このテーマに文化や歴史部門の保全、継承も明記されておりますので、少しだけ期待しておりますし、自分なりの研究を通じてその保全や継承に関れればと思います。