本日は週休、盛岡赤十字病院へ検査結果を聞きに盛岡へ・・
ついでにイオンにも行ったが、ひとつ郷土史関連で気になる地域が近郊にある。
滝沢村ということであるが、綾織越前なる人物がその昔(天正年間1580前後)この地域に堰を苦労して作ったといわれている。今でもこの地域の水田等に欠かせないものとなっているそうです。
綾織の名から・・・そう遠野市綾織町が思い浮かぶものであるが、そのとおり遠野の綾織の出と伝えられております。
一応の伝承では阿曽沼時代、綾織の一部を知行していたそうですが、斯波氏(紫波領主)に軍師として迎えられ斯波氏の配下となったそうです。当時の滝沢、盛岡、雫石方面は南下する三戸南部氏の脅威にさらされていましたが、斯波氏はよく防ぎ領地を守っていたとされております。
そんな中、綾織越前は滝沢の地に灌漑用堰の工事に着手、1586頃、完成させたということです。
綾織ということで綾織方面の豪族、宇夫方氏の血縁か、広信という名前からすれば阿曽沼一族が広を多用しているので、その血縁か・・とにかく謎の人物ではございますが、彼の地で名を残している史実からして遠野出身の人物だったというのは間違いないものと思われます。後で調べたいと考えております。
ついでにイオンにも行ったが、ひとつ郷土史関連で気になる地域が近郊にある。
滝沢村ということであるが、綾織越前なる人物がその昔(天正年間1580前後)この地域に堰を苦労して作ったといわれている。今でもこの地域の水田等に欠かせないものとなっているそうです。
綾織の名から・・・そう遠野市綾織町が思い浮かぶものであるが、そのとおり遠野の綾織の出と伝えられております。
一応の伝承では阿曽沼時代、綾織の一部を知行していたそうですが、斯波氏(紫波領主)に軍師として迎えられ斯波氏の配下となったそうです。当時の滝沢、盛岡、雫石方面は南下する三戸南部氏の脅威にさらされていましたが、斯波氏はよく防ぎ領地を守っていたとされております。
そんな中、綾織越前は滝沢の地に灌漑用堰の工事に着手、1586頃、完成させたということです。
綾織ということで綾織方面の豪族、宇夫方氏の血縁か、広信という名前からすれば阿曽沼一族が広を多用しているので、その血縁か・・とにかく謎の人物ではございますが、彼の地で名を残している史実からして遠野出身の人物だったというのは間違いないものと思われます。後で調べたいと考えております。
気仙の猫淵神社の謎を追っていて、皿屋敷伝説と白山信仰との関連にたどり着いた結果、滝沢市篠木に伝わった皿屋敷伝説で処刑された綾織越前という人物にいきあたったのですが、阿曾沼一門らしく、系図から見るとどうも阿曾沼広郷の弟か、広長の異母兄に当たる人物のようですが、何かわかりますでしょうか。
たいへんお久しぶりでございます。
ブログ開設当初のつたない記事へのコメントいただきまことすみません。
滝沢の綾織越前、高い確率で遠野の綾織地区ゆかりの人物であること、阿曽沼一族或いは阿曽沼臣で綾織を領していた宇夫方一族だったろうと推測できます。
おおよその概要というか史実化どうかは別物として遠野での明治時代の学者、伊能嘉矩が調べ上げた内容が詳しいものと私個人は思ってますが詳しくは滝沢村史に掲載されていたものと記憶しております。
『滝沢村史』の綾織越前に関する考察はネットにもupされているので、詳しく読むことが出るのがありがたいのですが、阿曾沼系譜上のつながりがはっきりしないというのが疑問点でしょうか。
ちなみに綾織越前の監視役として、南部藩は家臣の武田丹後を大釜館に派遣して、動向を探ったとあり、この武田氏は元々甲斐武田氏の出で、南部氏が閉伊郡に派遣したとあるのですが、武田丹後といえば、大船渡市末崎町西館の末崎城主・武田丹後守と同名でもあります。丹後の子、武田式部少輔は葛西氏滅亡後南部に浪人したことが『気仙古記』に記されていますから、南部と仙台の伝承の食い違いがみられますが、おそらく同一人物、或はその子なんじゃないでしょうか。
末崎町にも猫神の石碑があり、綾織町の笠通山周辺には猫の伝説がありますから、何やら因縁めいたものを感じますが、皿屋敷伝説は水神に捧げる人柱に関係するものと推理していますので、何か隠されているんだと思います。
これは、群馬県前橋市の酒井氏の居城であった前橋城にやはり皿屋敷伝説の類話が語り伝えられることから、五代将軍徳川綱吉の就任に関わったとされる南部重信の伝承が密接に絡んでくるものと考えていますが、南部重直と南部重信の家督相続の前後に、利直の男子の血流が重信を除いて尽く絶えているのは何らかの血なまぐさい陰謀が裏で行われた結果なんじゃないかと。故に清心尼の二女である松晃院が魍魎(火車猫)に襲われる原因となったのではないかと推理しているのです。
滝沢村史、綾織越前をネット検索すると出て来てビックリ、結構詳細に記載もされなかなか便利ですし、ありがたいですね。
気仙地方の武田氏、大船渡辺りにも武田姓も少しあるみたいですし閉伊の武田氏に関しては、以前訪ねた旧河合村小国の大梵天舘の主が武田氏でした。
後に県北の方へ移動したとありました。
火事猫は火車、キャシャ?ですか、綾織の小峠辺りでの話も伝わっていたような?
でも難しいですね。
側の笠通山には猫石と呼ばれる大岩があり、前九年の役の折、笠通山の砦を攻めた八幡太郎義家に退治された大猫が岩に化したとの伝承が伝わっています。
ちなみに、私が以前ブログで紹介した大船渡市末崎町西館の猫の石仏と、武田丹後が居した滝沢市大釜の大釜館を結ぶと、綾織町の笠通山が浮かび上がるんですよ。
綾織越前は堤の完成後、繋の尾入と言うところに隠匿したと言いますが、この繋にも猫石と呼ばれる大岩があり、やはり前九年の役の折、安倍貞任に苦戦した源義家は本陣のある湯ノ館山(繋温泉南方の山)まで退いたが、兵糧が尽き困り果てた義家軍は、山中の動植物を悉く殺生した為、投げ捨てられたそれらの骨や肉片、種などが一夜にして猫の形をした大石となり、義家の殺生を戒めたと伝えられているんです。
遠野物語拾遺、まさしくですね。
言い伝えの場所等もあり、単なるおとぎ話とは異なる雰囲気は以前から感じておりました。
しかし・・・最近はこの分野、郷土史からも離れていてなかなか本気になれない部分もあって、そのうちにということで願います。
さっとさんのお話に今は付いていけないのが現状です・・・謝