太古の遠野は湖・・・・ご覧の画像でもなんとなく遠野盆地は湖水の中という考えがないわけではないっ・・・。
山の突端が岬を形成していた感じもしないわけでもないっ・・・古来より伝わる伝承からすれば、湖だったかもしれません。
さて、私の住む松崎町駒木・・・いつから駒木と呼ばれていたのかは定かではない、少なくても戦国時代には駒木と呼ばれていたのだろう・・・これは駒木に駒木氏という武将が居たと伝えられ、その舘跡も現存し、さらに慶長年間に南部氏(盛岡南部)から駒木地区を任された駒木豊前なる武士が居たこと、後に駒木氏は遠野を離れ南部藩士として血脈を伝えていること、このことからもみてとれます。
ちなみに駒木氏は本姓を菊池と称します。
駒木は言い伝えによりますと鎌倉御家人で下野国の阿曽沼広綱が源頼朝から遠野郷を拝領、阿曽沼氏の代官として赴任した宇夫方広房が駒木に仮館を築いたが始まりとされております。駒木には阿曽沼舘とよばれる跡地も残され、何かしらの記憶によるものと思いますが、残念ながらこのことを含め、鎌倉方から遠野を拝領したという古文書、記録一切は現存していない。
もっとも遠野という名が出てくる国内最古の文書は建武年間における陸奥守、北畠顕家から権断職の南部師行に出された国宣に「遠野保」とあり、おそらくこれ以前より遠野と呼ばれていたものと思われます。
宇夫方氏が当初、駒木の地を統治の中心とした理由は、色々と論ぜられておりますが、まずは現在の遠野の中心地、遠野や白岩地区は太古の遠野の名残で湖水の中、或いは湖沼が点在していたのではと考えられ、駒木地区は早くに干上がり、農地として活用されていた地域で、さらに経済基盤も整えられていたのではとも言われている。当時の遠野は駒木、附馬牛、さらに土淵方面が開発されていて、こちらが中心だった・・・と考えた方がよさそうでもある。
ということで、折をみてつづきを掲載していきたいと思います。
画像は妻の神、耳切山山頂からみた遠野盆地・・画面中央が駒木地区の上、下駒木、中央右端が矢崎
山の突端が岬を形成していた感じもしないわけでもないっ・・・古来より伝わる伝承からすれば、湖だったかもしれません。
さて、私の住む松崎町駒木・・・いつから駒木と呼ばれていたのかは定かではない、少なくても戦国時代には駒木と呼ばれていたのだろう・・・これは駒木に駒木氏という武将が居たと伝えられ、その舘跡も現存し、さらに慶長年間に南部氏(盛岡南部)から駒木地区を任された駒木豊前なる武士が居たこと、後に駒木氏は遠野を離れ南部藩士として血脈を伝えていること、このことからもみてとれます。
ちなみに駒木氏は本姓を菊池と称します。
駒木は言い伝えによりますと鎌倉御家人で下野国の阿曽沼広綱が源頼朝から遠野郷を拝領、阿曽沼氏の代官として赴任した宇夫方広房が駒木に仮館を築いたが始まりとされております。駒木には阿曽沼舘とよばれる跡地も残され、何かしらの記憶によるものと思いますが、残念ながらこのことを含め、鎌倉方から遠野を拝領したという古文書、記録一切は現存していない。
もっとも遠野という名が出てくる国内最古の文書は建武年間における陸奥守、北畠顕家から権断職の南部師行に出された国宣に「遠野保」とあり、おそらくこれ以前より遠野と呼ばれていたものと思われます。
宇夫方氏が当初、駒木の地を統治の中心とした理由は、色々と論ぜられておりますが、まずは現在の遠野の中心地、遠野や白岩地区は太古の遠野の名残で湖水の中、或いは湖沼が点在していたのではと考えられ、駒木地区は早くに干上がり、農地として活用されていた地域で、さらに経済基盤も整えられていたのではとも言われている。当時の遠野は駒木、附馬牛、さらに土淵方面が開発されていて、こちらが中心だった・・・と考えた方がよさそうでもある。
ということで、折をみてつづきを掲載していきたいと思います。
画像は妻の神、耳切山山頂からみた遠野盆地・・画面中央が駒木地区の上、下駒木、中央右端が矢崎
松崎辺りは湖の畔だったかも・・・ですね。史蹟などを辿っていくと、そんな図が出来てしまうらしいです。詳しくは分かりませんが・・・・
高清水から盆地を一望した時、この写真同様どことなく湖の面影を感じられました。前もってそんな情報を得ていたからでしょうが、もしそうだとしたら、今とは全然違った光景が広がっていたのでしょう。
ハァ~、ロマンだなぁ
私も知ったふうなこと書き綴ってますが、形も変わらず古からある風景、これがこれらの山々だったのでしょう・・・これも浪漫です。
山の紅葉も木の種類のためなのか、神奈川や山梨などの山とは雰囲気がまた異なり趣がありますね。
先日富士の山中湖に今が見ごろの紅葉を見に行きましたが、想像していたよりもいい色で素敵でした。
それでも今年の気候のためか全国的には紅葉の色があまりよくないそうですね。
鶴ヶ城の紅葉の色も地元の方によると今ひとつだといいますし^^;
春先の水田が広がる様は正しく湖を彷彿させます。
下組町の愛宕さんのところが決壊して湖の水が流れだしたにや聞いてますが頷けます。
水を湛えたこの地は幻想的だったでしょうね。
遠野には「崎」の付く地名があるのはその証拠。
松崎・矢崎・須崎・山崎・林崎・野崎・柏崎・鶯崎・みさ崎・・・・・ねぇ~
*5月画像リンクしておきます。
最近は紅葉も遅れ気味、色もイマイチと思うも、それでもまだまだ美しい景色がみることができます。住んでいるところから間近にみられる、よく考えれば幸せなことかもしれませんね。
romiさん
おそらく太古の遠野は湖だったと思います。
崎のつく名称も、各地域それぞれ何かしらの名残があったと考えます。