「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

鮎貝館と鮎貝氏の軌跡

2008-11-15 20:28:22 | 歴史・民俗
鮎貝館跡・・・遠野市小友町鮎貝

 画像2008.11.13撮影


 この度、小生が公開するウエブサイト並びにブログにて、以前鮎貝館に関する記事を掲載した経緯がありましたが、その内容をご覧になられた気仙沼市在の鮎貝氏よりメールが寄せられたことにより接触が成り、気仙沼の煙雲館を訪ね伊達家御一家筆頭、鮎貝氏に関しての若干の情報をいただいたこと、さらにこれを励みに小友鮎貝の鮎貝館跡の4度目の探訪調査を実施、その際に少ないですが地域の方々から直接、鮎貝に関する伝承をお聴きすることができ、鮎貝館と遠野時代の鮎貝氏に関してのさらなる考察ができる環境となりましたので、当ブログにてご披露したいと思います。


☆鮎貝館の伝承

 おそらくは地域に伝えられた内容に後の郷土史家達がある程度の考察を重ねるうちにその考察等が少し伝承という内容と融合した雰囲気も感じられますが、地域では語られるのは・・・。

「館主を鮎貝志摩守といい、阿曽沼興廃事件にて阿曽沼氏と共に気仙へ逃れた」とする内容と「阿曽沼家臣となっていた鮎貝某、御番所役を勤めていたが、伊達の回し者という風評が広がり、このことが南部家の知ることになり小友に居ることが叶わず気仙へ落ちて行った」との内容。
 しかし、小友町の鮎貝の地名は、鮎貝氏が在館し当地を治めていたことに由来するということは共通している。


小友町鮎貝地区



 どうしてもこういった伝承に当時の時代背景の推測やら歴史的な見解が融合され、より具体的な内容となりますが・・・・。


☆時代背景考察

 鮎貝氏といえば出羽国出の伊達家臣を指しますが、阿曽沼広長時代、文禄年間か?遠野は阿曽沼氏が盟主的立場で君臨していたが、豊臣秀吉による全国統一が成る時代、葛西氏、大崎氏、和賀氏、稗貫氏・・・といった各郡に勢力を誇っていた武家は没落、遠野は南部信直の領地となり旧主阿曽沼広郷(広長父)は取り潰しは免れたが、南部家の旗下に組み込まれた。

 阿曽沼広郷は、南境の葛西氏と親交があり・・・というより影響下にあった雰囲気が感じられますが葛西氏が没落後、大崎・葛西一揆後に南で境を接することになる伊達政宗と気脈を通じることになったと考察され、主家である南部家とはある程度の距離をとっていたともいわれる。

 遠野は阿曽沼宗家と阿曽沼分家といわれる鱒沢氏の勢力が拮抗した時代となっており、遠野では度々両者による争乱があったと伝えられている。
 一方の勢力、鱒沢氏は南部家と気脈を通じ、主人筋である阿曽沼氏を通さず、南部家と直接交渉したり命を受けていたといわれるが、この対抗策として阿曽沼氏は伊達家寄りの立場で対抗、対南部家、鱒沢氏への策として、伊達家家臣、鮎貝氏を密かに小友に招へいしたとも、伊達政宗によって派遣されたとも考察されている。





☆鮎貝氏とは・・・
 
 藤原北家流山蔭中納言の孫藤原安親は、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を称した。
 応永三年、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移り鮎貝城を築き、鮎貝氏を称し、以後、宗盛-定宗と続いたという。また一家の家譜では鮎貝定宗が鮎貝に住んで鮎貝を称したともいう。
 
 鮎貝氏は伊達晴宗(政宗の祖父)時代、「守護不入」(国主といえどもその領地統治に関して干渉しない)の特権を与えられ、伊達家からかなり優遇されていたことが伺われる。

 天正15年(1587)、伊達政宗と対立する最上太守、最上義光の支援で伊達家に謀反を企てたが、伊達政宗によって鮎貝氏は攻められ鮎貝城は落城。
 鮎貝氏当主宗信は最上家に逃れたが、伊達政宗は当主の弟宗定を粗略に扱わず、祖父の代より格式高き家である鮎貝氏を御一家(伊達氏親族等)に据えて優遇した。


☆遠野市小友の鮎貝氏

 鮎貝兵庫宗定は、天正15年、兄宗信が伊達政宗に謀反し最上へ逃れると、鮎貝氏の後継となったが、文禄、慶長、寛永初期に至る30年の足取りが不明とされる。
 この間の所領は柴田郡堤村(宮城県柴田郡大河原町)でこの地に居を構えていたと僅かに伝えられますが、伊達家が激動を重ねていた時代に鮎貝氏が無為な歳月を送っていたとは考えられない・・・気仙沼市史

 記録にはその関りが示されながらも、その痕跡が不明といわれた柴田郡堤村での鮎貝氏、しかし、近年、大河原町の持明院の無縁墓地にて鮎貝宗重(日傾斉)の墓石が発見され、先代である宗重が柴田郡堤村に関りがあったことが証明されたようです。

 さらに宮城県大崎市(古川)の城代として鮎貝氏が一時期居たとする資料も発見されたということで、空白の30年も少しずつ紐解かれているようでもある。

 古川での内容は、今回、気仙沼の鮎貝氏を訪ねた際にお聞きした情報ですが、詳しくはお聞きしなかったこともあり、詳細は不明です。


 近年にその足跡等が明らかになりつつ鮎貝氏ではありますが、それでも遠野へ至った経緯は以前不明でもあります。

 柴田郡に居たであろう先代宗重は寛永2年の没年と記されている。
 柴田郡の知行地は父である宗重が守り、子の宗定が伊達政宗に従って各地に活躍したのだろうと推察できますが、しからば遠野へは・・・・・。





 鮎貝館は江刺郡(奥州市江刺区)に通じる五輪峠が控え、鱒沢に通じる道、小友に通じる道の要衝に位置しており、遠野方にすれば南側で境を接する勢力に対する最前線といった拠点と考えられる。
 またその逆であれば、遠野への入口を抑えた形となり、目障りこのうえない状況だったことが伺えることでもありますが、この地を他勢力が把握するといったことは、やはり遠野内部からの協力無くしては成し得ないのではないのか、さらに伊達家という強力な支援体制が構築されていなければ、やはり維持できない状況とも考察されます。

 伊達家による遠野派遣での鮎貝氏、大いに考えられることではないのか・・・・。


館跡内部・・・平場



☆鮎貝館の疑問点

 館跡調査からといった観点からみれば、本家サイトにも記しておりますが、対南部家といった館の構えにはどうしても思えない。
 館跡は北~南に傾斜する形状で、背後である北側の遠野、鱒沢側は山野が連なるとはいえ、北側には人的に工作された防御施設跡やら遺構は見当たらない。
 南側を前面としており、自然の堀と成す小友川が流れ、むしろ五輪峠側からの勢力に対する構えであるという考えは払拭できない。



 気仙沼市史では、鮎貝宗定が小友の鮎貝館に在館していたことは、史実であろうと結論付けている。
 また鮎貝家ご末裔も、おそらく史実で遠野に関わりがあったものだうとしている。

 慶長5年前後に関してもそうですが、南部家の史料等には遠野での鮎貝氏に関する記録は一切出て来ない、無論伊達家に関してもそのとおり、遠野での事は、まさに口伝のみの内容であるも、小友鮎貝が一時期伊達家によって占拠されていたというよりも、阿曽沼氏によって招へいされていたもので、南部家等に対する対処は鮎貝氏を客分家臣として扱い、その結果としてある程度の出入りが緩和されていたのではないのか、それは小友という産金に大きく関わった土地故の特徴をあらわしているのではないのかと思えてならない。
 鮎貝氏もまた小友の金山開発、獲得の使命も帯びていたこと、この線も強いものではないのかと・・・。

 慶長5年、阿曽沼広長が遠野での謀反で気仙郡落ちをした際に、鮎貝氏も行動を共にしたのだうとも推測され、慶長5年を以てして遠野との関わりは無くなったものと考察いたします。



 ちなみに江戸期、伊達家臣鮎貝氏の重臣に梅田氏の名がみえる。
 祖は阿曽沼広重という人物であるが、梅田氏は現在も鮎貝氏と同じく気仙沼に御子孫がご健在であると聞きます。
 他に浅野氏も遠野に縁ある家とのことでもありますが、こちらは私は把握しておりません。

 阿曽沼広重は所伝での遠野阿曽沼系図にはみられない人物ではあるが「奥南落穂集」には阿曽沼主計広重とある。

 遠野から鮎貝氏と行動を共にしていたかは不明ですが、気仙郡世田米に関係した人物か、或いは気仙郡内で鮎貝氏に臣従したものか?


 近年に伊達家側(宮城県)で鮎貝氏の事績不明期間における新発見がありましたが、南部家側で何か発見されれば、遠野における鮎貝氏の事績等の謎が一気に氷解という場面にもなり得ますが、今後も折あらば何かと調査に関わっていきたいと考えているところです。


小友川・・・向って左が館側


 さらにおまけ的な内容ながら・・・

 館跡脇のS商店の奥さんが、気仙沼の鮎貝さんは家の寺の檀家さんですとのこと。
 はてな?・・・小友のお寺さんのことか?常楽寺か・・・・なんで気仙沼の旧家が小友の・・・・?・・・後で調べてみると、気仙沼の鮎貝氏の墓所が気仙沼の松岩寺(曹洞宗)にあるということで、この寺のご住職が小友町鮎貝の出で、商店さんのお身内なようです。
 先祖が辿った遠野小友の鮎貝の地から気仙沼の鮎貝氏菩提寺のご住職が・・・これも何か歴史的な因果を感じるのは私だけでしょうか。

                             
   
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鮎貝氏考察・煙雲館にて

2008-11-13 19:05:58 | 歴史・民俗
 連日氷点下の朝、しかし、陽が高くなるとこちらも連日となる抜けるような青空、特に東側の空が澄んだ青色、早速遠野ブルー、いや、憧れのオリンパスブルー出現を目指してシャッターを切る。


福泉寺上方の空・・・正午頃



我家の庭から東方向



 さてここからが本題・・・・
 昨日の気仙沼行きでの本来の目的ということで・・・・

○ 煙雲館・・・宮城県気仙沼市










 遠野市小友町鮎貝に残される中世城館跡、鮎貝館・・・この鮎貝館と共に館主と伝承される鮎貝志摩守なる武将、そして妄想的ながらも当ブログやHPで何度か取り上げたことがあり、インターネットを通じ、これらのサイトをご覧になられたという、伊達家家臣鮎貝氏のご末裔で、気仙沼煙雲館主の鮎貝氏からメールが寄せられておりました。
 若干の鮎貝氏に関する情報と共に疑問がありましたら、丁度煙雲館の正式公開日が何日かありますので、よろしければお越しになられては・・・とお誘いを受けておりました。

 しかし、指定された日は勤務日であり、どうしても休めないこともあり、11月中にうまく休みと暇が重なった際に急に行けるかもしれない、この場合は平日の可能性が大きく、なかなかタイミングが計れずにいたのですが、今回、海岸方面に行くことになり、この機を逃したら・・・そんな思いで煙雲館を訪ねてみようと思ったのですが、何の連絡もなしに急にということも甚だ相手に失礼なこともあり、今回は場所の確認と説明板等があったらその撮影、できたら遠景とかの撮影で済ませて帰ってくるつもりではありました。


 嫁さんと義母は折角来たのだからと、そそくさと庭園の方に向って歩き出しておりましたが、ダメもとで小生はお宅の玄関を訪ねますと、館主様のお母様がご対応くださり、小生が遠野から来たとお伝えしますと・・・「息子から聞いております、どうぞあちらからお入りください」とご丁寧なご対応をいただきました。
 息子さんの鮎貝氏は仕事でお留守ということで、わかっていながらも平日の真昼間に訪問というなんとも一般社会とは少しだけかけ離れた内容となりましたが、それでも、色々とこちらの質問等にお応えくださり、また貴重な資料等もお見せいただき、さらに一部コピー等もいただき、たいへん有意義な訪問となりましたこと、この場をお借りしてお礼申し上げます。
「ありがとうございました」


☆煙雲館
 伊達家御一家筆頭、鮎貝氏歴代の居館。
 庭園は、江戸初期の寛文年間、仙台藩茶道頭、石州流二代目、清水道閑の作と伝えられる。
 仙台藩士鮎貝氏歴代、さらに国文学者で近代俳句の先駆者として与謝野鉄幹や尾上柴舟、金子薫園・・・等の著名歌人を門下とした「落合直文氏」の生家としても有名である。






 四季折々のすばらしい景観を堪能できる由緒ある庭園、今回小生は眺めるだけで広大な庭園散策は叶わなかった。
 こちらが大汗かいて恐縮の連続の中、嫁さん達は何も知らずに庭園散策、ほぼ同じに駐車場で会った際は「どこさ行ってらった、すげい立派な庭っこだったじぇ」・・・汗・・・連れてきた小生がいけないということで、なんとも返す言葉もありませんでした・・・汗


 今回の気仙沼訪問、そして本日は小友町鮎貝館を探訪、さらに近所の方々からも鮎貝館に関する伝承やら情報を収集、そして市立図書館にて若干裏をとる調べ、考察を展開するにはいつもよりは条件や情報が打ち揃ったという雰囲気であり、次回にその考察をご紹介したいと思います。

 次回とは11月15日(土)を予定しております。


もったいぶった内容ですみません。
おまけ画像での、日向ぼっこ中に虫が飛んできて、その虫が気がかりなネネでも観ていてください・・・汗



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南三陸ミニ紀行

2008-11-12 19:13:21 | その他
 ほぼ快晴の遠野、青空ハンターには持ってこいながら、嫁さんが休み、義母も久しぶりにゆっくり出来る日とのことで、ドライブがてら海の何か美味いものでも食べに行こう・・・というより連れ出され運転手として一路、大船渡、陸前高田方面へ車を走らせる。

 高田まで1時間もかかっていない、実は遠野を出る際に密かになんとか気仙沼まで行けたらと目論んでおりましたが、このことは後日、なるべく早めにエントリーの予定といたします。

 ということで、お昼前に気仙沼市入り、ここは岩手県ではなく宮城県、しかし遠野から90分という近さでもあり、盛岡に行くのとあまり変わりない距離ということになります。


 南三陸も青空がバッチリ広がっておりました。








 気仙沼港







 南三陸は今が紅葉の盛期といいますか、来週には見頃となる場所も沢山あるとか。








 気仙沼といえば、全国的に有名なのか「フカヒレ」・・・ということで鮫にちなんだキャラクターも多い・・・。




 メインはフカヒレを使った食品が一番目立つ・・・。




 しかし、我々が昼食としたのは・・・・







 フカヒレラーメンといきたいところですが、これが海鮮丼より高額・・・といっても海鮮ものは小生ダメですので、海鮮風あんかけ焼きそばをいただく。





 観光用海産物売場




 カメラの設定を少しいじったことや、明るめのレンズとした効果なのか、以前に比べて画像が案外色鮮やかにきれいに撮れているような・・・・この調子でもう少し腕と知識高揚に努めなければ・・・と思うところです。


 途中・・・「鹿折」の地名・・・・これは・・・・むむむむ・・と反応してしまいましたが、次の機会にと我慢、これから向かう先だって、実は小生中心の内容でもありまして・・・・・続きは上でも記述しておりますが早めにエントリーと考えております。
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大原勝行と慶長19年

2008-11-10 20:20:16 | 歴史・民俗
 午前中は青空が広がるも午後に少しずつ雲が多くなり出す。
 午後、循環器検診を受診のため、昼近くに家を出るとまずは問診表の提出、受付を済まして、開始時間まで松崎界隈を車で流す・・・。


高場(松崎町光興寺)・・・薬研渕橋から



猿ヶ石川




◎ 大原新右衛門・・・大原弾正勝行

 1年程前に大原新右衛門について、エントリーしておりますが、その第2弾という意味合いながら、大きな進展は無いことを最初にお断りいたします。

 前回のエントリーは・・・こちら


 大原氏墓所・・・土淵町常堅寺









 前回のエントリーでは墓碑に刻まれた由緒について掲載いたしましたが、その後の大原氏について史料的にどうしてもつかめない状態である。
 また、常堅寺開基に係る内容及び由緒と伝えられる大原新右衛門の事績につじつまが合わず、これも未だにハッキリせず・・・・。


〇大原弾正勝行

 寛永3年・・・寺の開基に関わる内容が記されているが、大原勝行44歳

 天正18年・・・兄と目される大原氏当主、大原重光が15歳、弟と語られる勝行は、寛永3年から逆算すれば8歳の幼児・・・このことはよいとして、後の時代、阿曽沼広長が気仙落ちした慶長5年以降に遠野に来たとすれば弾正勝行は成人してからの遠野入り、この時に南部利直より8百石を給された・・・一応このような考え方となりますかね。


 ということで、少しずつ南部藩関連資料や書籍にて調べておりましたが、これといった発見に至らずも・・・・。

 大原新右衛門は確かに南部利直に仕えていたようでもありますし、7百石を減じられ百石となったと語られる原因のひとつも一応に伝えられてもいるようです。

 「遠野なんだりかんだり」の笛吹童子氏も以前ブログで記述してましたが、大坂冬の陣(慶長19)において、大原新右衛門と宮守主水は、出陣に係る諸費用を南部家から借金して南部勢として従軍したようでもあります。


大坂御陣かし金

 一、弐拾弐匁四分大原新右衛門、
 一、拾六匁九分六りん也、宮森助十郎、
 一、弐拾匁其元(毛馬内三左衛門の家来)壱間衆、
 一、弐拾匁其方手前、右之金早々取候て上げべく候なり

           元和4年10月28日 利直黒印

                    毛馬内三左衛門

 
 元和4年であれば遠野城代は上野右近広吉、取りたてを命じられた毛馬内三左衛門は、上野広吉没後から遠野城代となったともいわれますが、既に遠野郡代という遠野を全般的に監督する立場だったかもしれませんね、毛馬内三左衛門は閉伊郡佐比内村(上郷)を含む8百石を食む南部家の有力家臣の一人でもあった。

 宮守氏は宮守の旧領に5百石を安堵されていたが、故あって禄没収、正に大坂の陣に従軍した慶長19年を境に遠野地方の武家達が没落の憂き目となっている。
 (後に宮杜氏として重直公の時代に召し出され、花巻御給人)

 他に平清水駿河、小友喜左衛門も大坂の陣を境に没落している。


 大原氏も同じ憂目となったものと推測されますが、その大原氏に関する伝承は常堅寺絡みのみで、土淵町内で多くは語られていないのはどういうことなのか?
 

 
 土淵といえばやはり同時代に南部利直公より本宿村を含む8百石を給された本宿氏が至近に居たのであるが、大原氏と本宿氏との関連は・・・?


 本宿氏の居館といわれる本宿館跡のある山野(西館)



 ちょっとまとまりがつかない内容となりましたが、また何か動きがありましたら第3弾としてエントリーしたいと思います。



 
 昨日に続いて本日も・・・夕暮








 おまけ

 検診


 おそらく昨年同様の再検査箇所の通知が来ると思いますが、体重が昨年より4キロ減、メタボ測定では・・・79センチで一応セーフながらも、予備軍みたいな感じて注意喚起は受けるものと思います。

 顔は丸いですが、案外肥えてないんですよ・・・笑
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晩秋、里の夕暮れ

2008-11-09 19:48:35 | 遠野
 どうも最近何事にもしっくりこないといいますか、空回りばかりのような気がしてならない。

 本エントリー・・・夕方近く遠野テレビを見ていたら宮守のメガネ橋のライトアップ画像が映し出されていた。
 これは宮沢賢治の銀河鉄道の夜のモチーフとされた場所とは違うという講釈と共に現地にて画像取材してからエントリーと考えて勇んで出かけて行ったが・・・・大汗・・・・。

 ライトアップなんかされておらず・・・・道の駅のドアに「ライトアップは10月いっぱいで終了いたしました」・・・涙

 「俺は何を見たんだっ・・・夕方の画像だったのでてっきり今もやっていると勘違いしたのか・・・」・・・。


 ということで、出かけるついでに駒木地区と伝承園のとりとめのない画像を少し撮りましたので、不本意ながらも本日の画像といたします。













 秋仕舞にはもう少し先となりそうですが、既に田圃仕事も終了、冬間近の夕暮れの遠野です。



 ちょっと久し振り・・・本日の洋楽

 あわあわ・・・・笑

http://jp.youtube.com/watch?v=ZZbkr76Mx5Q&feature=related
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OLYMPUS 二桁機登場

2008-11-07 19:04:24 | その他
 朝から雨降り、これから気温がグッと下がって里でも初雪の便りが聞かれるかも・・・との予報、今年は秋の訪れが早い分、冬も早いのか?
 いずれ、冬タイヤの支度だけは早めにしなければ思っております。


 さて一眼デジでのオリンパスユーザーのひとりですが、予てからオリンパスファンの掲示板やら口コミ情報板でささやかれていた中型機が間もなく発売という。


 OLYMPUS E30




 E500シリーズ・・・E500・E510・E520の三桁機とフラッグシップ機であるE3との中間モデルといった位置付で、以前から気にはしておりましたが、自分的にはタイミングが合わなくて購入は叶わない、無論資金も無いし無理な話ではありますが・・・涙
 
 カメラの知識や腕前、さらに現在持っている機種に精通している身でもないので、多くは語れませんし、講釈もできませんが、オリンパスもなかなかなカメラを世に送りだしておりますので、一眼デジカメ導入をと考えている皆さん、是非にその候補に加えてもよろしいかと思います。

詳しくはHPで・・・・こちら


 来春にはだいぶ値も落ち着くものと推測もされますし、叶うことならサブ機として、数年後に中古とか、新機種の出る辺りの値落期に狙いたいが本音でもあります・・・あくまでも今の思いのみです・・・。




 ということで11/5の画像ですが、OLYMPUS製一眼デジで撮影した画像・・・汗


 八幡館跡の山野



 福泉寺下



 遠野プロガー諸氏の中にはコンデジでも一眼デジ顔負けの素晴らしい画像を撮る方々も多いですし、被写体に対する感性の素晴らしさを兼ね備えた方々もおります。
 この方々が一眼デジを持ったら・・・すごいことになりそうですね・・・笑
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上野右近廣吉

2008-11-05 19:28:47 | 歴史・民俗
 午前中は正に秋晴れといった天気、東や北の空は陽が高くなるにつれ、遠野ブルーと呼ばれる鮮やかな青空が広がっておりました。

土淵町・・・11/5午前



○ 上野右近広吉・・・遠野阿曽沼一族

 上野右近を名乗る前は上野丹波と称していたが、遠野の歴史を語る上では、あまり良い伝承をされない人物のひとりでもある。
 
 慶長5年、最上へ出陣中の遠野孫三郎(阿曽沼広長)留守の横田城を鱒沢左馬助広勝、平清水駿河景頼と共に制圧、所謂謀反との位置付けで、瞬く間に遠野郷も支配下に置いた主要人物の一人とされる。



伝・上野館跡(和野館)



 猿ヶ石川沿いの丘陵地に館が築かれていたと考察されている。








鱒沢方面を望む



 上野丹波広吉は一説によると宇夫方一族が主館とする新里の西風館が正体不明の賊徒による夜襲を受けて陥落、これにより宇夫方一族が衰退すると、かつての宇夫方氏の中心的な館であった二日町の谷地館を得て、この方面の領主となったと伝えられる。

 しかし、川向いの和野地区には、上野館と呼ばれる場所、館跡が存在していることから、以前から上野氏縁の場所だったものなのか、また谷地館は得たが和野の上野館を主館としていたかは不明であるも、綾織地域に勢力を持っていたことは確かなことなのかもしれません。


昭牛山光明寺(曹洞宗)  遠野市綾織町


 永禄年間、綾織大久保の地に草庵が創草されたといわれ、永禄12年、綾織谷地舘主、上野広吉によって寺領を寄進され一寺を建立、天正12年に現在の地に移る・・・といわれる。



 上野広吉は遠野阿曽沼系図によると阿曽沼広郷(遠野孫次郎)の次男と書かれ、広長の弟と伝えられていた。
 現在も郷土史に関わる古老の中には、広長、広吉を兄弟とする説を主張する方も居られますが、史実かどうかは不明ながらも事件等で伝承される内容を信じて紐解けば、広長よりも年長という雰囲気が十分伝わるものである。

 永禄年間には綾織光明寺の開基に関わっていること、阿曽沼広長が遠野を追いやられた慶長5年(1600)、広長の子がまだ幼いことを考えれば、広長は30歳前後か?しかし、翌慶長6年の広長による遠野奪還の戦い、赤羽根峠の戦いでは広吉の娘婿である十二鏑弾正なる武将が遠野方として参戦していること、長女は人首九右衛門の妻、二女は鱒沢広恒の妻、三女が十二鏑氏の妻・・・と伝承されていることからを考えれば、広長よりはかなりの年長となると思われ慶長5年頃は50歳代前後となるものと推測される。

 このことは遠野市史1にても考察されており、ここは広長の弟ではなく、叔父説、広長の父とされる阿曽沼広郷の弟とするのが妥当であると考えます。



 月山神社跡   綾織町和野




 実は前出の上野館跡とした画像、大体の場所は当っているものと思われますが、その詳細が分からず・・・しかし、市道上の集落墓地付近の山野を少し探訪すると月山神社跡に遭遇・・・石碑に彫られた文字に・・・・。




 上野丹波、すなわち上野広吉に関わりある地であることは確かなようです。



 遠野騒動の主たる人物、鱒沢広勝は慶長6年、気仙に亡命の阿曽沼広長に対して機先を制すべく気仙郡内へ出陣するも平田合戦にて討死、跡を受けた鱒沢広恒(忠右衛門・浅沼忠次郎)は、南部利直より3千石を給され、南部家中での大身となるも間もなく断絶、平清水駿河も1千石となるも北十左衛門に関わる事件に連座といわれ、やはり家は断絶。

 残る上野広吉は1千石を給され、遠野横田城代となったと語られる。
 上野広吉は阿曽沼家に連なる一族であり、横田城(鍋倉城)に入り、正に遠野の盟主となったことを実感したものと推察されます。

 上野右近が遠野城代時代は、大きな混乱もなく、失政もなかったといわれ、南部利直よりさらに1千石が加増ともいわれ、計2千石の大身でもあったようです。


慶長17年10月14日付
 利直公御墨印 
 遠野郡綾織、横田、嶋廻、細越、佐比内、稗貫郡高松村、和賀郡晴山村、小山田村にて都合2千石
                        宛所 上野右近とのへ


 ちなみに平清水駿河にも同年同日に墨印が与えられている。


 まさに絶頂の時代であったと想像もされますが、伝えられることによりますと、子は娘ばかり4人といわれ、長女に人首九右衛門(上野九右衛門広高)を婿養子に迎えるも、男子を産むも産後の肥立ちが悪く死去、二女は鱒沢広恒の妻であったが若くして死去、三女は和賀郡の土豪、十二鏑弾正の妻であったが、弾正は赤羽根合戦で討死、この時身重の三女も出産の際に母子共に死去、四女は才女といわれたが醜女であったといわれ、年頃となるとその不幸を恨んで自殺したといわれる。

 伝・四女の辞世句

 面影を 映す鏡に恥初めて
      人目を忍ぶ身こそ幸けれ


 
 元和7年上野右近広吉が死去、上野氏は2千石を取り上げられ、一時断絶となるも、八戸から遠野へ移封され遠野領主となった八戸氏、先の当主清心尼公の計らいで百姓の子として育てられていた上野九右衛門の子、与三郎を召し出して5百石にて八戸家臣として再興させたといわれる。
 しかし、阿曽沼氏の血族が再興ということで阿曽沼遺臣達の喜びは大きく、後にこれが災いの元となることを危惧して、与三郎を2百石で盛岡南部家臣としたといわれる。



 遠野市史等に記されている内容であるが、これらを編纂された史家の先生方は、伝承という形ではかなり深く取材やら調査をしていたものと思いますが、南部藩における近世文書や盛岡南部家に関する史料等を吟味した形跡がなんとなく見当たらない。

 上野九右衛門は資料でも記述されているとおり、慶長19年大坂冬の陣において遠野勢152人の内、総指揮者という位置付で53人を率いた上野九右衛門が記されている。
 これは皆さんもご存じの内容でもあり遠野市史にも記されている。
 

 南部藩諸家参考系図では・・・
 上野与三郎広易は、元和7年家督相続、太守利直より岩手郡田頭、野田村の計5百石を給されたとある・・・寛文3年上洛、京で死去。
 
 広易の子、寿易(久三郎)後に蒔内新左衛門・・・寛永3年家督、重直公寛永年中命により蒔内新左衛門直易の養子となる。
 
 後に橋野家となる家系、蒔内家の家系が上野氏の血脈を伝えている。(途中断絶有)


清心尼や八戸直義による再興ではない雰囲気、元和7年、寛永3年はまだ八戸氏は遠野へ転封はしていないのである。


 遠野騒動での主たる人物達は哀れな末路と語られるも、それでも直に没落したものではなく、遠野騒動以来20年前後は盟主と名を留めている(平清水氏・上野氏)
 上野氏に至っては断絶とか厳しい内容ではなく、盛岡南部家臣として子孫は健在であったようでもあります。

 史家の先生方の伝承採取とその考察も案外資料に近いこともあって実は驚いております。




 本日の画像追加編

宮代から





駒木・・・福泉寺方向

 
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晩秋戦隊ごれんじゃ~

2008-11-04 18:08:57 | 遠野
 天気は良いものの強風が吹き荒れ、しかも冷たい風である。
 山々の紅葉も鮮やかな色を失い、本日の風で落葉が進んだものと思われます。

 
 上松崎橋から・・・11/4 午前




 間もなく景色は色を失い、赤や黄色といった鮮やかな色を風景からは望めない季節到来となりますが、そんな色鮮やかなラストチャンスを探してみました。


 秘密戦隊ゴレンジャー



 ウルトラマンシリーズ、仮面ライダー・・・とヒーローもので小学生時代を過ごした年代、戦隊シリーズの元祖であるゴレンジャーは確か中学生の頃だと記憶しているが、主題歌だったか挿入歌だったか・・・・「バンバラバンバンバン・・・」のフレーズが印象深い・・・笑


 ということで、ゴレンジャーをもじって5つの色を紹介いたします・・・汗


☆ 赤・・・アカレンジャー


 紅葉の赤(紅)・・・11/4 福泉寺



 甲子柿(かっしがき)・・・釜石市甲子町の特産
 釜石市在住の知人からいただきました・・・感謝


☆ 青・・・アオレンジャー



 風景、景色で青といえば遠野ブルーといわれる空の色しか思い浮かばなかった。
 11/4 福泉寺



☆ 黄・・・キレンジャー


 
 あえりあ遠野前の銀杏   11/4




 遠野中の銀杏   11/4

 この時期の黄色といえば菊の花も思い浮かびますが、あえて銀杏としました。
 遠野駅前の銀杏、旧駒木小の銀杏はまだ青々としており、これからが見頃となりそうです。

 そういえば「キレンジャー」といえば、いつもカレーライスばかり食べていたような・・・テレビでのストーリーはよく覚えてないけど、カレーライス好きのキレンジャーと「バンバラバンバンバン」は覚えております・・・笑



☆ 桃(ピンク)  モモレンジャー



 今時期にピンク色を探す、難しいと考えていたが、庭先の菊によく見られました。
 ゴレンジャーでの紅一点、以来戦隊モノでは1人の女性ヒーローが付きものといった具合である。



☆ 緑   ミドレンジャー



 これから鍋の季節到来、欠かせないのが白菜である。
 キャベツや白菜・・・越冬させるほど作ってないので、真冬の時期はスーパーのお世話になりそうです。



 ということで、この戦隊ヒーローシリーズ・・・長男がモノ心つく頃に何年か強制的に観せられたものです・・・汗

 ジュウレンジャー(恐竜戦隊)・・ダイレンジャー(五星戦隊)・カクレンジャー(忍者戦隊)・オーレンジャー(超力戦隊)・・・このオーレンジャーのピンク役でさとう珠緒さんが出演され、お色気を振りまいていたことを思い出す・・・笑



おまけ




コメント (6)
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まがってみられだ

2008-11-02 16:43:35 | 
 まずは関東ぶれんと来遠による歓迎の宴・・・・。

 かなり早い時間に会場入り、ひとり生ジョッキ一杯を一気飲み・・・つまみは何がいいかなと思案していると・・・一番搾り無濾過の文字が・・・・。



 どうしても割高となってしまいますが・・・限定ビール、飽きるほど家で飲んだわけでもなく、ここは迷わずオーダーしてひとりチビチビと・・・。



 旨い・・・遠野で遠野の香りを・・・・なんともいえない・・・笑



 ひとりしみじみと味わっていると、宮城のマドンナさんからうれしい電話・・・「来てしまいました、すぐ行きます」・・・うれしい・・・笑


 三々五々、メンバーが集まり出し、その都度乾杯・・・。







 一次会、最終的には9名、二次会にて1人合流、10名のぶれんど参加となりました。

 肝心な遠野ブログ画像展開催に向けてなかなか話が進展しませんが、いずれにしても開催するという強い意志は確認できましたので、渾身の遠野画像、写真を準備しておいてください・・・。

 
 二次会は親父パワー炸裂のカラオケ大会、小生、間もなく循環器検診となりますが三次会は・・・・大汗






 解散は26時・・・汗・・・いつまでも若いふりはしていられないとわかっていても止められない・・・汗

 しかし、いつもながら楽しい宴、次は忘年会となりますのでよろしくお願いします。


 某御仁の足・・・笑・・・足にモノが落下したとかで骨折していたとか、たいぶ治ってきたそうです・・・お大事に・・・。





 さて、ここからが本題・・・汗

 朝起きるまでは気仙沼に行く予定としておりました。
 しかし、一度、息子がクラブに行くとかで学校へ送って行くと、やはり昨夜の宴の名残が・・・酒臭い・・・これでは酒気帯びになってしまうということで、気仙沼行きは中止、家で大人しくしておりました。

 二日酔い気味の親父の相手はネネだけ・・・居室のドアからまずは覗きこんで・・・俗に言う「まがってみてから」遠野弁でいう「いだますか」と猫語で一声・・・。





コメント (12)
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