「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

我家にも小さな春が・・・

2010-03-15 18:36:11 | その他

 陽射しはなかったものの、穏やかで風の冷たさを感じなかった本日。

 郷土史モノのエントリーに備えて調べ物でもしようかと考えたが、市立図書館は閉館日だったことを思い出し予定が狂ってしまう・・・・。

 

 さらに水も温んできているような・・・・

 

 

庭や畑に目を向けると・・・・

 

 

小さなクロッカスが少し咲いておりました。

 

ふきのとう

数日前までは雪の下だったはず・・・

こちらにも春の息吹が・・・・

 

小さな春を感じて少し得したような・・・・。

 

 ちなみにバッケ(ふきのとう)は、もう少し増えてきてから天ぷらにでもして、いただこうと思います・・・。

 

 

 別話題ですが・・・・・

 

 

 玄関の靴箱の上に石ころが無造作に置かれている。

 小生からみれば、ただの石ころですが、実は長男は幼い頃から石マニアで、変わった形や色の石を見つけては家に持ち帰る癖があったのです。

 学習机の引き出しの中は、石ころだらけ・・・ということもありましたし衣服のポケットの中にも石ころが入っていて、そのまま洗濯機へ・・・・ということもありました。

 よく家の玄関の中とかお店に入ってすぐのところにアメジストというですかね・・・ピンクや紫色できれいな大きな石なんか置いていたりしますよね。

 あれが欲しいと随分とねだられた記憶があります・・・汗

 大きさの割にはそんなに高いものではないのですが、それでもおいそれと買える代物ではないんで、掌サイズのものをよく買ってあげたりしておりました。

 観光地なんかに行くとお土産屋さんにもよく綺麗な石を売っていたりしますが、嫁さんのお母さんも石が好きで、その血を受け継いでいるのか、ふたりで良く石定めをしていたことを思い出します・・・笑

 その当時の名残が玄関に無造作に置いてある石ころというわけです。

 

 

 

ネネも途中まで散歩

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ホワイトデー

2010-03-14 19:25:41 | その他

 肌寒く風の強い日、それでも午後からは青空も広がって少し春めいた雰囲気でしたが、昨夜の謝恩会の余韻が午前中一杯残った3月14日でもあった。

 

 

 雪もほとんど融けてなくなっております。

 本来は全く予定がなかったモノでしたが、先月バレンタインデーに事故に遭ってしまって、これも皮肉なのかホワイトデーにあるモノが来た・・・汗

 でも大安吉日であること、番号も個人的には忘れることはないナンバーである。

 

 

 

 嫁さん専用車、ホワイトデーということで親父からの大きなプレゼントということにしておきます・・・涙

 何かと物入りな時期に突入といった場面ですが、なんとかやりくりしながら生きていきたいと思います。

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義務教育終了

2010-03-13 14:28:27 | その他

 二女の中学卒業式

 

 

 

 

 長きにわたる子供達の義務教育課程が終わった。

 ちょっと寂しいような思いと安堵した思いが親父の心を交差する。

 

 

 

いつになく緊張した様子のPTA会長殿・・・笑

 

138名の仲間達

 

そして旅立ち

 

いい卒業式でした。

 

4月からは、また新たな人生のスタートでもある。

末娘共々、皆さん頑張ってください。

 

 

そして・・・

 

卒業を祝う会

 

生徒、父兄、先生・・・と余興で大いに盛り上がる。

 

 

 引き続き夕方から行われた謝恩会

まずは料理から・・・

 

 

 某遠野プロガー氏のご令嬢と末娘が同じクラスで、会場内でカメラ親父二人は異質にみえたかもしれない・・・汗

 謝恩会を楽しみながらも取材メイン・・・笑・・・プロガー魂というのですかね・・・それでも出席されていた多くの方々は我々のブログを知らないという・・・少し残念。

 

 担任の先生と某プロガー氏

 

父兄の皆さまによる余興

 

 思った以上に美人さんのお母さん方が多かった。

 こんなにきれいな方々がいるなら、もっと学年行事とかに積極的に参加するんだったと後悔したりして・・・笑・・・それと小生も一緒に踊りたかった・・・笑

 

そしてラスト

 

先生方

たいへんお世話になりました。

 

 

 余興等で大いに盛り上がった後、二次会との声もあったが、同級生である某プロガー氏とふたりで別場所での二次会へ移動。

 

その後、三次会へ・・・・

 

 謝恩会では顔は知っていても話をしたことがない方々がほとんどで、人見知りの小生のこと、最初から焼酎をガンガンやってペースアップしてましたから、後半はかなり効きました。・・・でも楽しい晩でした。

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早春の福泉寺10

2010-03-12 17:30:04 | 遠野

 弥生3月、陽射しもだいぶ柔らかくなってきたと思えば、ここ数日は春のドカ雪の影響で、まとまった降雪もあって、冬と春の一進一退の攻防といった季節でもある。

 本日は久しぶりに青空が広がった午前中でしたので、カメラ片手にいつもの散策コースをのんびり歩きました。

 

法門山福泉寺参道

 だいぶ雪も融けたのですが、連日の湿った降雪で融けては降り、降っては融けの繰り返し・・・。

 

 気分だけですが水も温み始めたような?・・・

 

遠野における桜の名所のひとつ福泉寺

 春の気配は感じるものの、ソメイヨシノの開花は例年なら4月20日過ぎ、今年はいつ頃の開花ですかね?・・・早く咲いてほしい、桜の季節到来を待ちわびながらも、やはりゴールデンウイークに見頃となってほしいと個人的には思っている。

 

 歩みは五重塔へ

 

 

 

 厳冬期には膝下辺りまであった雪ですが、今は踝辺りまでとなっている。

 

 

 雪残る福泉寺ですが、着実に春の足音は聞こえてきております。

 

 

縁結び観音

 ご利益があるかどうかは保障いたしませんが、貴方の御心ひとつ、行いひとつかと思います・・・汗・・が、まだご縁がない方々、今年は良いご縁に恵まれますようご祈念しております。

 

 今月下旬、冬季の閉山は解かれる予定です。

 

 

 ネネ

 

毎日の飲み薬も終了、完全復活となりました。

 

 

☆お知らせ

NHK BSハイビジョン

3/13 PM8時30分~10時00分

 

「鬼太郎、幸せ探しの旅に出る」100年後の「遠野物語」

出演・水木しげる

‘遠野物語’が伝えようとしたものはなんだったのか?
水木漫画のキャラクター‘鬼太郎’達が遠野を旅するさまを通して、‘忘れられようとしている大切なもの’に思いをはせます。

 

 是非にご覧ください

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もう少し我慢

2010-03-10 19:35:08 | その他

 二女の携帯電話を新規契約をした。

 店でみればカラフルで色んな携帯電話があって、どれがいいのか迷うほど・・・・?

 ついでに親父の携帯も変えようかと思っていたが、値段がよい・・・汗

 とても2台いっぺんにとはいきそうにない・・・涙

 

 

 丸4年使用のとらねこ親父氏の携帯電話・・・汗

 使わなければ2日に一度の充電で済むが、3度も電話したりすると直ぐに電池は無くなり、即充電という優れもの・・・大汗

 まっ、ホントに用事のあるときしか電話はきませんし、かけませんので一応、間にあってはいるかもしれない。

 ただ、文字が小さくて、メールは読み辛く、また文字打ちも難儀している状態・・・・文字の大きさも一応大きめに設定しているはずですが・・・・?・・・とにかくもう少しだけ使うことになりそうです。

 

 若い頃は携帯電話なんかなかった・・・。

 あの頃、携帯電話があれば小生の青春時代はまた違った展開になったかもしれないし、人生も少しは違っていたかもしれない・・・・と思うも、これも運命であり、人生ですから、今さら何を言っても仕方ないですね。

 今を生きる・・・・ですね・・・笑

 

 でも・・・使用頻度は少ないけど、そろそろ新しい携帯ほすぃ・・・涙

 

 

 

雪降りの日、元気になったネネも大人しく家で昼寝三昧。

 

 

おまけ

 

ちょっとネタ切れ気味・・・

 

すこしだけ仮想夜の街・・・笑

 

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和賀岩崎一揆加勢の事

2010-03-09 16:04:37 | 歴史・民俗

 5回にわたり、概略的な和賀岩崎一揆について記して参りましたが、まだまだ参考とした資料や図書書籍もあったのですが、今回は北上市史をはじめ近辺の自治体史を主に活用という内容でもありました。

 和賀岩崎の陣・・・というように南部家側が一揆鎮圧に軍勢を差し向けたという内容で、南部家側からの資料が主であったこと、次に取り組む際は伊達家側からの視点といった内容も取り入れながら調べを進められたらと思っております。

 

 さて、慶長5年9月~翌6年4月(1600~1601)の和賀岩崎一揆、和賀氏旧臣や稗貫旧臣達が主ではありましたが、南部根元記(北上市史)、奥南落穂集(花巻市史)に和賀岩崎一揆に加勢した遠野武士の名が記載されている。

 このことについては、以前から気になっており、特に「奥南落穂集、遠野家之次第」の項に慶長6年時と思われる遠野阿曽沼家臣等が記されており、さらに別項の「和賀家之次第」に和賀岩崎一揆に加勢した遠野武士9名が記されている。

 

和賀岩崎一揆加勢

・阿曽沼四郎広縄

・駒木内膳

・平倉刑部

・宇夫方八郎右衛門

・白岩左衛門

・畠中五郎八

・金沢与五郎

・細越与三郎

・栃内善兵衛

 

 ・まずは阿曽沼四郎広縄

 遠野領主であった阿曽沼広郷の二男と記されているが、遠野の歴史においては、ほとんど語られることのない名でもあり、阿曽沼家系図においても、資料等をもとに書かれた内容に登場するにとどまっている。

 ・駒木内膳

 阿曽沼旧臣にして、南部利直に仕えた駒木氏が歴史上存在しているが、主な人物として駒木豊前広道、子の隼人広三、同じく六兵衛広安、他に駒木一族として寛永4年(1627)以降に遠野領主、八戸直義に仕えた駒木氏が散見されるが、内膳については不明である。

 ・平倉刑部

 上郷平倉に縁ある武士であることは想像でき、平倉刃金館の平倉新兵衛の近親者と思われる。始め新助・・・とある。

 ・宇夫方八郎右衛門

 綾織宇夫方氏の一族であるのは想像ができるも宇夫方掃部、宇夫方八郎右衛門
、宇夫方多兵衛の3名が記され、和賀岩崎一揆加勢は八郎右衛門となっている。

 所伝では宇夫方一族は、西風館氏が主流となるも後に両者共に没落という内容もあり、それでもその姓が記されていることに興味を覚える。

 

谷地館跡(綾織町二日町)

 かつては遠野西側の盟主として名を刻む名族であった宇夫方氏。

 江戸期は遠野南部家に仕え、代々文官としての才で多くの事績を後世に残している。

 

 ・白岩左衛門

 遠野旧事記には白岩嘉兵衛の名が記されているが、こちらとの関係は不明。

 

 ・畠中五郎八

 畑中氏は南部利直に仕え盛岡南部藩士となった家でもあり、その一族であろう・・・。遠野の城館跡関係資料には阿曽沼広郷時代、畑中館主のひとりに畑中五郎八の名がみえるが、どの資料から引用したものかは不明・・・。

 

 ・金沢与五郎・・・・勉強不足で不明

 ・細越与三郎

 細越氏は南部利直に仕えた盛岡南部藩士の家系であり、与三郎は色々と遠野関連資料をみると与三郎敏広となりそうですが、当時の細越氏当主であると思われる。何故に南部家に対抗する和賀勢へ加勢となったのか、こちらもさらなる調べが必要でもあろう。

 ・栃内善兵衛

 土淵栃内村の栃内氏、江刺氏支族ともいわれるが、善兵衛は伝承によれば盲目の兵法者で栃内地域の馬産振興に尽力した人物と語られており、何故に和賀一揆加勢なのか?いずれ栃内一族も南部利直に仕えているので、さらなる調べが必要と思われる。

 

早池峰山

 

六角牛山

画像は以前撮影したものです。

 

 遠野から和賀一揆勢に加勢、早池峰山も六角牛山も瞼に焼き付けて出陣していったものと推察されますが、遠野から加勢した9名の武士は、どの時点から一揆勢に加勢したのだろう?

 慶長5年9月であれば、横田城主、阿曽沼広長は軍勢を率いて南部勢として最上山形に参陣しており、一応、南部方としての態度であったはず、この前後に鱒沢広勝や上野広吉等による遠野制圧のクーデターが勃発したものと思われるが、この時にハッキリと内外に南部方としてその姿勢を示したことにもなりますが、これに反抗するグループが伊達家支援の和賀一揆勢に将来を託したものなのか?それとも、どちらに転んでも生き残りをかけて一族の一人を各々加勢させたものなのか?

 

 当初、資料の記述の和賀岩崎一揆加勢・・・を見た時、南部勢として加勢した遠野武士が居たと勘違いしたこともありました。

 

旧横田城跡(松崎町光興寺)

昨年初冬の頃の画像です。

 

 和賀岩崎一揆とは関係ありませんが奥南落穂集には、阿曽沼広縄の他に阿曽沼広重の名が記され、広長、広縄の兄弟であったと推察される内容ですが、伊達家家臣の気仙鮎貝氏関係の調べでは、鮎貝氏家臣の梅田氏は阿曽沼広重の末裔との情報も聞き及んでおり、記された内容の中には信憑性が極めて高い記述も盛り込まれている可能性があると思われる。

 

 今回は、記された内容と共にいつもながらお茶を濁した簡略的な記述となりましたが、もう少し踏み込んで、いつか調べてみたいと思っております。

 いずれ、一揆に加勢した人々の一族には敵方であった南部利直に仕えた方々もおり、このことも興味を覚えますので、いずれまた・・・ということで和賀岩崎一揆に関しては、ひとまず終わります。

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何故か紳士服をゲット

2010-03-07 19:03:19 | その他

 この春から大学生となる長男にスーツの一着でもと思い、フレッシャーズセールで賑わう盛岡の紳士服専門店へ行って来た。

 広告なんかにある格安のモノからブランド品までピンからキリまで・・・でもちょっといいなあ・・・と思うものは、それなりの値段でもあって、なかなか決めることはできない。

 息子も、なかなか首をタテに振らない・・・笑

 

 

 県内の比較的人口の多い街の街道沿いには、全国にチェーン展開されている紳士服専門店の支店が数多くある。

 さて、何処で買っても同じと思うも、一応メディアでも有名な某2店に絞って双方訪ねてみた。

 

 小生の場合は、高校を卒業すると直ぐに農協がやってきてオーダー注文、何も分からずに親に買ってもらったが正直なところですが、仕事柄、スーツを着る機会はほとんどなく、成人式、友人の結婚式くらいなもの、後は職場の歓送迎会といったことで、年に2~3度も着れば多い方、その後、冠婚葬祭は礼服といった具合ですが、それでも結婚して直ぐに岩手では老舗ですかね、後〇長で一着、既製品を買い、その後、遠野にも支店が出来たので(今は無い)、安い礼服を一着、それからしばらくはスーツは不要でもあったが、体系が変わって・・・大汗・・・今度は派手目の色がほしくて、パープル色のスーツを4号線沿いを探して求めて、こちらも今は無き、〇る〇ま・・・でゲット・・・汗

 親父が亡くなった時に葬儀で着る礼服が入らず・・・汗・・・急遽、地元の洋服屋さんからダブルの礼服を買うも、これは想像以上に高かった・・・汗・・・でも、モノは良かったみたいで、しばらくは現役で着れそうな雰囲気です。

 最近は、仕事関係の研修等も増えてきて、スーツで一応参加という場面も多くなったので、ビジネススーツを数年前に買ったが、収納が悪かったのか背を虫食いされて穴が・・・・それでも、なんとか誤魔化して着用してました・・・大汗

 

 さて、嫁さんの甥っこからアドバイスをいただいておりました。

 なんでも、スーツ一着買うと、もう一着サービスとのこと、以前、友達と買いに行って、自分が買ったら、もう一着サービスされたとかで、しかも買った同等以上のスーツで構わなかったとのことで、二着となったので、二人で折半して支払ったとのことで、なんか儲けた気分だったとか・・・・。

 これも実は目当てにして、2店目に移動・・・・。

 

 

 2店目で、それなりに気に入ったスーツが見つかり、サイズ合せして、まずはこれを買うことに・・・・ちょっと気になったことを聞いてみようとすると、店員さんから、もう一着、1千円プラスしますとお父さん用のスーツが付きますが、いかかですか?・・・・と来たもんだ・・・笑

 即、OKの返事をして、息子が選んだ値と同等の品を選んで二着ゲット・・・・。

 まぁ、仕組みはありそうですが、二着で一着の値段ですから、ここは素直に喜ぶことにいたしました。

 甥っこからの情報はあっても、まさかという気持ちもありましたし、気に入らなければ買うつもりもなかったけど、もう一着の誘惑には勝てませんでした・・・汗

 

 その後、大型家電店に行って、やはり息子用の一人暮らし応援セール品を品定めして帰宅いたしました。

 ちょっと遅い昼食は・・・・

 

 メタボとか、カロリーとか無関係・・・腹が減ってましたので・・・・大汗

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初大師・2010

2010-03-06 15:11:10 | 福泉寺・伝承等

 菩提寺、福泉寺最大の行事、初大師が行われた。

 生憎の雨模様ながら、土曜日ということもあって壇信徒の方々の出足も好調で、延べ人数約700名が訪れてました。

 

 

 初太師では、お札の配布と護摩焚祈祷が主ではありますが、ほとんどの信徒さんは、受付を済ませてお札をいただいて、そのまま帰られる方々の多いのも事実、小生は終始、受付の任であったので、護摩堂の様子はわかりませんが、それでも護摩堂内では200名以上の壇信徒さんが最後まで参加されていたそうで、出される昼食も数回に分けて配膳されたとかで例年通りの賑わいとなったようでもあります。

 

桜の季節、ゴールデンウイーク並みの駐車場

 

 

 受付の任も大忙し、よって任務中の画像は撮れなかった。

 

 午後、全ての行事が終わり、順次お帰りになる信徒の方々

 

例年お願いする県内、隣県の同宗派の僧侶の皆さま

 

 春を告げる初太師も終了、雪ももう一降りありそうですが、気持ち的には、これで春も近しといった雰囲気を感じております。

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和賀岩崎の陣・五

2010-03-05 18:58:22 | 歴史・民俗

 花巻鳥谷崎城を落城寸前まで追い詰めながら、遂に奪還できなかった和賀忠親率いる和賀一揆勢は、二子城を経て、和賀岩崎城へ兵を移動させて籠城の構えをとる。

 和賀岩崎城は、和賀川と夏油川が合流する地点の南側に位置する丘陵に築かれた和賀郡内では二子城(飛勢城)に次ぐ規模の堅城でもあり、何よりも伊達境に近く、後詰の伊達勢の後援が受けやすい位置付けでもあった。

 続々と伊達家から城内に支援物資等が運び込まれたと想像ができ、城内は士気も旺盛だったと伝えられている。

 籠城する和賀勢は、和賀忠親を大将に和賀、稗貫の旧臣約480名、伊達政宗から派遣された大崎、葛西の浪人衆、さらに郡内の百姓等、総勢約1800名(1500ともいわれる)とされている。

 

 一方、和賀、稗貫領内での異変、一揆を知った南部利直は、参陣中の最上山形の最上義光を介して徳川家康に一揆鎮圧の嘆願して、直ちに少数の部隊を残しただけで、ほぼ全軍をあげて最上山形より南部領内へ軍勢を引き揚げさせている。

 慶長5年(1600)10月3日ともいわれるが、10月8日には南部利直は一旦、本拠地の三戸へ戻り、領内の諸将に岩崎一揆鎮圧の軍令を発して、10月13日には稗貫郡内に至って、和賀方の根子氏、八重畑氏を掃討して花巻近在に陣を敷いた後、数日を要して岩崎城に向けて南部勢約5千名が進軍し、10月18日には三月田(江釣子)に陣を構え、10月23日に岩崎城支城の兵庫館を攻めて占領、南側からの伊達勢による支援を遮断する意図の他に岩崎城攻撃の拠点とするべく、夏油川沿いの高台に位置する七折に前線基地たる陣を構築する。

 直ちに南部利直は岩崎城総攻撃を下知するも、一揆籠城軍の防備は固く、頑強な抵抗に遭い、その一角を崩すこともできず、降雪の季節を迎えてしまい、旧暦11月16日(新暦では12月21日?)やむなく雪解けを待ってからの再攻撃を下命して、浄法寺修理、南右馬之助を包囲軍の将に残して南部勢は一時撤退するに至る。

 

 余談ではあるが、2千名近い兵が冬季の岩崎城に籠ること、和賀郡内では屈指の規模を誇る城館であっても、将兵全員を収容できる建物が数多くあっただろうか?また雪深く厳寒な地、暖をとるには薪類が全てで、しかも四六時中、暖をとるための火は必要で、雪解けまでの約5ヵ月間、豊富な兵糧やら物資があっても、持たなかったのではないのか?といささか疑問でもあった。

 小原藤次氏 著「没落、奥州和賀一族」では、小生の疑問と同じような記述があり、全兵収容しての厳冬期の収容は不可能との見解が示され、南部勢の包囲もそれほど厳重ではなく、その目を盗んで一揆勢の中には、かつて見知った郡内の知人や遠戚を頼って城内より出ていたのではないのか・・・と考察されている。

 そして春先に決戦に備えて順次城へ入っていたのではないのか・・・と記されている。

 

 

 

 

 慶長6年(1601)3月、雪解けを待って南部利直は総勢4千7百といわれる南部勢を率いて、再度和賀郡岩崎城攻撃に進発する。

 3月17日、三方を囲んだ南部勢は総攻撃を開始する。

 

 一方、伊達勢は、岩崎城支援の後詰の拠点を水沢城(奥州市水沢区)に定めていた。

 伊達政宗の命令の下、水沢城主である白石宗直が指揮権を以てその後詰にあたっており、白石宗直は伊達家重臣中の重臣であり、後に最上位の一門第5席の家柄となり、登米伊達家2万石の祖である。

 

 さて、南部勢に包囲された岩崎城であるが、当初は南部勢の攻撃をよく凌いでいるも、数任せで連日攻撃を続ける南部勢の前に日に日に籠城の一揆勢も消耗が激しくなり、しかも兵糧等も乏しくなりはじめる。

 岩崎城救援のため、白石宗直率いる伊達勢が六原野及び相去(北上市)の谷地小屋地区に進出し、白石配下の鈴木将監、浜田三郎衛門が率いる伊達勢数百が4月4日、密かに岩崎城に物資搬入を試みるため夏油川を渡河して南部領に侵入したが、この動きは事前に南部利直の知るところで、迎撃部隊長に大光寺正親、副将に中野吉兵衛の精鋭部隊が伊達勢に攻撃を加えた。

 一連の和賀一揆での戦いで、南部方と伊達方の局地的な小さな戦いはあったが、この岩崎城近くの夏油川の戦いは、南部利直率いる南部正規軍と伊達家家臣とはいえ、伊達家重臣が率いた列記とした伊達勢が本格的に戦闘を行ったもので、伊達方の鈴木将監が討ち取られ、伊達支援隊は散々に敗れて壊滅し、憤りを隠せない白石宗直は母帯越中に7百の精兵を引率させて南部利直本陣に奇襲を敢行するも、これも事前にその動きを察しられ、逆に南部勢に包囲され、こちらも壊滅的な打撃を受けて敗退する。

 これにより伊達勢は岩崎城支援を諦め伊達領内に撤退となり、孤立無援となった岩崎城籠城の和賀一揆勢は、日増しに兵員が減り、遂に4月26日夜、火攻めによって岩崎城は落城する。

 和賀忠親と主な将は、岩崎城から脱出、伊達政宗を頼って伊達領に逃げのびるも、既に徳川家康からは南部家と伊達家の私闘という承認があったかどうかは不明であるが、いずれ後詰であっても明らかに和賀一揆勢への支援は事実であり、伊達政宗は和賀忠親を庇うことなく南部領での一揆首謀者として葬り去っている。(自刃説が一般的だが殺害された可能性が大と思われる)

 水沢城主の白石氏は間もなく登米に移封されたが、母帯越中は一揆の後援主謀の罪を一身に浴びて詰腹を切らされたものと思われる。

 

 

参考図書

北上市史2・3(南部根元記・・聞老遺事・奥南盛風記)、奥南旧指録(南部叢書)

没落奥州和賀一族(小原藤次 著)、東和町史、大迫町史、遠野市史1・・・他

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和賀岩崎の陣・四

2010-03-04 19:06:05 | 歴史・民俗

 慶長5年(1600)9月、旧和賀領主、和賀義忠の遺児、和賀忠親はかつての和賀氏旧臣等を以て挙兵、一連の和賀一揆の始まりである。

 まずはかつての和賀氏居城であった二子古城を占拠、またたく間に和賀郡の旧領のほとんどを南部氏から奪還し、稗貫郡の花巻鳥谷崎攻略を主たる目的として次の作戦が開始された。

 まずは、詳細は不明ながら9月13日とも20日ともいわれますが、田瀬、安俵(花巻市東和町)方面の攻撃が開始され、これは鳥谷崎城から繰り出す援兵を誘い出し、手薄となった鳥谷崎城を奪取する作戦だったといわれている。

 田瀬、安俵方面攻撃部隊は、伊達家臣の上郡山主水に率いられた浪人部隊約300余りが江刺郡(奥州市江刺区)人首(ひとかべ)から南部領境の覚間沢へ侵入し、これを占拠、その勢いのまま南部方、江刺長作隆直配下の小田代肥前が守る田瀬館を攻撃する。

 江刺長作とは、かつての葛西氏旧臣で江刺郡主で岩谷堂城主、江刺兵庫頭重恒の孫で、江刺氏が奥州仕置きで没落した後に、奥州仕置軍の将、浅野長吉に嘆訴して南部信直の家臣となり和賀郡内の土沢を領し新堀城を居城としていた。

 江刺長作は隆直といい、父は江刺重隆。

 

田瀬館跡(花巻市東和町)

 伊達勢の攻撃の前に田瀬館は落城寸前まで追い込まれたが、江刺郡の住人で旧千葉氏家臣の及川左近、左近の子で下河原若狭が手兵を率いて寄せ手の上郡山勢を攻撃し、これを撃退した。

 

田瀬湖

 当時はダム湖はありません・・・笑

 

 一方、安俵城は原帯主膳が守将であったが、伊達家臣、藤田右衛門が率いた浪人部隊が口内(北上市口内)方面から侵入したので、口内近辺で激戦が繰り広げられ、原帯主膳は討死するも新堀城から江刺長作、花巻鳥谷崎からの援軍も到着して、伊達勢は敗れ撤退となる。

 

 さらに密かに稗貫郡大迫(花巻市大迫)に侵入潜伏していた、かつての稗貫家臣で大迫城主であった大迫右近の子、又三郎、又右衛門兄弟は旧臣を集め、伊達勢の猪倉伯耆の鉄砲隊の支援のもと、約300の兵で南部方、田中藤四郎配下の石田数衛の守る大迫城を攻撃し、石田は討たれ、大迫城の奪還に成功する。

 

 一方、花巻鳥谷崎城は、「和賀岩崎の陣・弐」で記したように、旧和賀、稗貫勢の攻撃を城将、南部家重鎮の北信愛(松斉)が僅かな城兵でよく守り通し、和賀勢は二子城へ撤退、そして和賀岩崎城に籠城となるのですが、大迫は稗貫郡の北方に位置し、真先に南部勢の反撃に遭う位置付けでもあり、南の田瀬、安俵、そして稗貫郡内の本拠地たる鳥谷崎城が一揆勢の手に落ちなかったことで、後方からの支援が望めないことで孤立という状況で、しかも南部利直が最上山形から大軍を率いて戻ってくれば、ひとたまりもないと判断した伊達勢は撤退、大迫兄弟も夜陰に紛れて密かに城を逃げ出して、岩崎籠城軍と合流している。

 別説では大迫城は南部方、乙部氏によって攻められ再奪還されたともいわれる。

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