Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

卯の花3 72

2020-11-13 11:37:45 | 日記
 いやぁ全く驚いたなぁ、本当に。お前にこんな芸当が出来るとは。それもここ迄やるとは、なんともはやだ。玄人はだしというものだよ。大した役者も顔負けという物だ、何しろ階段から落ちて迄見せるというのだから、これは勲章物だよ。祖父はそう言うと、手等打ち鳴らして独り言ち始めた。

 「お前をここ迄に育てるとは、あれの手柄ばかりではあるまい、そうか、姉さんが上手くやってくれたんだな。これは、姉さんに金の一封も出さないといけないなぁ。」

彼は首を捻り捻り、片手の拳を彼の顎に当てがいながら、夢中になって喋っていたが、何時しかとんとんと階段を降りて仕舞い、階下の畳の上を小さな円を描くようにしてうろうろと、小刻みに歩き回りながら大層感心して、頷きながら、云、上手い、なかなか、等、はしゃいで喋っていた。

 それから足を止めると、彼は斜めに私を見上げ、不審そうな視線を私に対してぶつけて来た。何だろうか?。元より何も分かっていない私の事だ、祖父のこの様な思わせぶりな言動が何を意味しているのか皆目分からない。目をぱちくりさせて彼を見下ろすばかりであった。

 「智ちゃん、お昼になったら呼ぶから、その儘2階で休んでおいで。」

祖父が徐に言うので、ああと、私はお昼ご飯が貰えるらしいと思った。『それは良かった!。』。私は台所から来る廊下での父や、最前の祖父の言葉から、お昼ご飯は無いと思っていたのだ。その為、今祖父から自分に向けて掛けられたこの言葉に対して、極めて嬉しく感じた。『お昼ご飯が食べられる!』、にこにことして手を打ちならし、笑顔が溢れた。

 すると祖父は、ここで私同様に明るくにこやかな笑顔を浮かべた。彼のそれは我が意を得たりという様な感じであった。「お腹が空いていたんだなぁ、それでか。」、そう彼は呟いた。「窮すれば通ずだ。一寸した、そんじょそこらの子供には出来ぬ芸当だと思ったよ。」。彼はふふふとほくそ笑んだ。「飢えだよ、飢えがお前をこんな上流の役者にしたんだよ。」。

 静かにしているんだよ。そう祖父は言ってから、「姉さん、姉さん…、四郎はいないのか。」と、台所に聞こえる様に居間の向こう、廊下へ向かって開け放されている戸口の向こうに向かって、彼は大きな声を掛けた。私の方は、2階の寝室に向かおうと体の向きを変え、次の階段に手を伸ばした。私の背中越しに、皆何処に行ったんだろうという祖父の怪訝そうな声が聞こえていた。 

 「静かにしておいでといっただろうに。」

見上げると、私の目に祖父の顔が映る。何時の間に祖父は私の顔の上に自分の顔を持って来れたのだろう?。私はそんな疑問を持った。

「冗談だったらなぁ。」

これが冗談だったらよかったのに。冗談にしておいてくれたらよかったのになぁ。祖父は元気の無い顔付きで、ぽつぽつとこう私に語り掛けていた。それは彼の独り言の様にも私には取れた。 

卯の花3 71

2020-11-13 10:47:52 | 日記
 すると祖父はフフッと笑って、私も落ちぶれたものだな、こんな小童に案じられるとは、と独り言の様に語った。

 私は、祖父の言葉が少し分かったような気がしたが、その言葉の前後の脈絡という物がさっぱり理解できなかった。私は彼を見詰めた儘黙っていた。

「何か言っておくれ。」

祖父は私に語り掛けて来た。何か言ってくれないと、その儘になったのかと思うからね。そんな事を微笑みながら、穏やかに彼は私に言うのだ。「人のこういう場面には、過去に何度か会っていてね。」、ぽつりぽつりと、祖父は他人事のように淡々として静かに話し出した。特に国同士の争い事では、そりゃあ多かったものだ。もう出会いたくないと思い、そう思っていたが、つい最近もあってね。新しい物は記憶に鮮明だ。…あれからもう、15年は経つのか。そんな事を言った彼は遠い目を伏せて顔を曇らせた。祖父は再び、何か話しておくれと私の言葉を促した。『何を言おうか…。』、私は考えた。

 「さっきね、お祖父ちゃんが階段の下に行った時、」

私は始めた。おうと祖父はほっとした様子で相槌を打った。

「お祖父ちゃんとお父さんが似ていると思った事が有ったの。」

親子仲良く、夫婦仲良く、家族仲良く、そんな言葉が日頃の合言葉のような我が家の事だ、父と祖父が似ているという話題は、祖父を喜ばせる筈だと私は思った。が、しかし、祖父はハッとした顔付になり、思わず「な、何を言うんだ。」と、小さく言葉を口から洩らした。それでも祖父は私の傍で私の顔を見詰めていたが、何故そんな事をと、言うと、「何時、どんな所でだい?、私は暫くの間下にいただろう。」と私に問いかけて来た。

 私は、その時の場面を脳裏に思い浮かべてみる。祖父が同じ位置で足を数歩動かし、怯んで沈んだ様な面持ちでいた顔付きや、会釈して礼などする様が、父のその様な顔付の時の、彼がした挙動と重なったのだと答えた。祖父は苦しそうな、眉間に皺を寄せた顔付をしていたが、

「お前、嫌な事を言うなぁ。」

と、嘆息めいて言った。

 「私が、あそこで佇んでいた時にかい。」

祖父は自分の行動を思い出そうとしたらしく、私から視線を外すと、階下の先程自分がいたらしい位置を見下ろした。

「お前の傍に行こうとして、実はお祖父ちゃんは足が竦んでいたんだよ。」

如何にも足が動かなくてな、漸く動いたと思ったが、お前が身動きしないで、…お前の動かない目だけがこちらを見ていたものだから…、祖父は身震いして言い淀んだ。

 「そう、あれだよ。」

「もう、その、息が無いのかと思ってね。」

一寸はにかんだような感じで、祖父は頬を染めて無理に笑顔を浮かべると言った。

 『息が無い。』。幸か不幸か、私はこの言葉を知っていた。私の小さな交際範囲の中で、金魚が、小動物が、もう息が無い。そう聞く事が数回有ったからだ。そこで私は、この時祖父の言葉を理解出来たのだ。

「嫌だな、お祖父ちゃん、」

私は眉根に皺を寄せて言った。

「生まれて間もない私だもの、未だ死ぬには早いよ。」

ほんとに冗談が、お祖父ちゃんの方が過ぎるよと。祖父が全く冗談を言っているのだと私は思っていた。祖父が未だ微笑んでいたので、私も彼に合わせてふふふと笑った。

 すると祖父は、目を瞬かせておやっという様に身じろぐと口を開いた。「お前」、そうかと頷くと、これも冗談なのかと彼は言った。いやぁ、参ったなと彼の様子は一気に緩んだ風情になり。その場の空気が軽く和んだ事を私は感じ取っていた。