彼は興味深気な顔付きをして私を見た。面白そうに私の口元を眺めていたが、よく回る口だなと呆れた様に嘆息した。
祖父は、「分からないなぁ。」、そう呟くと、不思議そうな目をした私に、「お前の事だよ」と語りかけた。私?、私の事が分からない?。そうか、祖父はやはりおかしいのだと、私は思った。
「智ちゃんだよ、」
私は応えた。
「智ちゃん、私は智ちゃん。お祖父ちゃん、目の前の男の人の、お祖父ちゃんの孫だよ。」
嫌だなぁ、お祖父ちゃん。と、私は歳を取ると耄碌すると聞いた事があるがと、ご近所で聞き齧った世間話を思い出していた。
何処そこの誰それは、もう耄碌してもうの字だ。夫や妻、子等、家族の顔も分からない。家へ帰る道はおろか、自分の名前も分からないそうだ、等。まぁ嫌だ、困った事だ。そんな世間話を1、2回、私は出先のお店で聞いた事があった。
そうか、祖父はもうそんな歳なのだと私は思った。そうなると家族が大変だと聞いた話も思い出した。「家族の心痛が思いやられてなぁ…。」、そんなお店の主人の言葉を思い浮かべると、私は自分の祖父がと、しみじみとした感慨が湧いて来るのだった。
お祖母ちゃんも大変だ。自分の夫であるお祖父ちゃんに、妻である自分の事が分かってもらえないなんて…。そう思った私は、祖母の身につまされて彼女の事が非常に気の毒になった。祖父にとっては孫の私より、長く連れ添った妻という立場の相手である。
「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんの事は分かるよね?。」
そう訊いてみるのだった。
すると、おばあちゃん?、そう彼は言って、はてと、おばあちゃん?、お前がそう言うからにはあれの事かな、と首を傾げた。そうして奇妙な顔つきで彼は私を見やった。彼は首を捻り捻り、「しかし、何故?、…。何故、今あれの事が…。」と、思案投げ首状態となった。…。
怪訝な顔付きで首を捻る祖父の姿に、私はやはりと確信を深めた。感極まった私は、
「お祖父ちゃん、惚けないで!、」
確りしてよ!。と、彼を叱咤した。お祖父ちゃんが惚けたら、家の誰より祖母が可哀想だ、と、私は彼に強く訴えた。思わず目に涙が滲んでくる。祖父はそんな私を、ポカンと口を開けた儘、無言の儘で見詰めていた。
さて、彼はさも訳が分から無いという様に、合点のいか無い儘、微笑む目で私を見詰めていたが、その内ははぁんという様に合点した。
「お前、私が惚けたと思ったのかい。」
そうだろう。という様に口にした。そこで私はおやぁと思った。お祖父ちゃん、ちゃんと分かっているじゃないかと、己が目をぱちぱちさせて思う。そこで試しに、お祖父ちゃんの名前は?、奥さんは誰?、と彼に尋ねてみると、階段の上、祖父は急に背筋を伸ばして身を逸らせると、ぷっと横を向いて息を漏らせた。無言でくっくくと肩を震わせていたが、彼が再びこちらに顔を向けると、その目には赤く涙が滲んでいた。
私を見詰めるその彼の目から、ぽろんと一粒涙がこぼれ落ちた。と、つーつつつー。彼の両頬はみるみる涙で濡れそぼり始めた。一体祖父に何が起こったのだろうかと、私はやはり不思議な世界の儘にいた。