「ご亭主、ちょっと黙っていてくれるかい。訳は後から説明するよ。」
厨房に近付いて、自分に声を掛けてきた男客の言葉に、この店の主人である彼は不服そうに黙って頷いた。彼は目の前の客の肩越しに、チラリと店内の女性客の方の様子を垣間見てみる。
『如何いう了見なんだか、あの女。こんな気前のいい旦那さんに無理難題吹っ掛けやがって。』
彼は彼なりに、いつもご贔屓にしてくれる近所の旦那、彼の目の前にいて、ひょろっとしてやや腰の曲がり掛けた白髪の多い男性に同情した。
『若いくせに、こんな弱り掛けた年寄りをコケにしやがって。』
むかむかと、彼の正義心が彼の内に湧いて来る。目の前にいた客は彼に背を向けると、ゆるりと自分の椅子に戻り掛けた。すると彼の目に、テーブルに残っていた女性客の全体像がよく見えて来た。彼女は椅子に座っていたが、その両手をテーブルの上でしゃんと組んで、彼につんと顎を出した真横の顔を向けていた。その体の方はというと、彼女は店主の彼を避ける様に出来るだけ彼女の正面を向こう側に向けると、彼女の腰を捻り、彼に向かってその背中の面ばかりを向けていた。『嫌な女だな。』彼は思った。
「旦那、あんな嫌な女に丸め込まれちゃ駄目ですぜ。」
彼は男客の背に応援の言葉を掛けた。
男性はドキッとした様子で、自分の肩越しに店主の彼を振り返った。顔は優しい笑顔である。ああ、ああと店主に頷いて、元通りに自分の顔を戻すと、客は自分の連れの女性客がギーっと店主を睨んでいる事に気付いた。客は内心ハーっと溜息を吐いた。あちらを立てればこちらである。が、此処はやはり身内である彼の連れ、息子の嫁を立てるのが本筋と考えた彼は、仕様が無いなぁと胸の内で呟くと顔を曇らせた。彼は店主に振り返り、彼の体の向きを変えると数歩戻り、今度は厳しい声で店主に言った。
「困るねぇ、あんたの声掛けは。」
と抗議を始めた。そうしながら彼は、後でゆっくり話すからと店主に小声で囁いた。
「てんで的外れなんだよ。」
「訳が分かって無いなら一切口出ししないでおくれ。」
そこでじっと静かにしていなさい。そうきつく厨房に向かって言うと、客は自分の連れ、女性客達の待つ元のテーブルへと戻って行った。
「さぁ、店主にはきつく叱っておいたからね。」
これで安心して話せるよと、男性客は女性客に微笑んでいる。
『なんでぇ。』
彼は味方していた男性客に裏切られた気分で内心不満を漏らした。世の中如何なっているんだか、戦争この方とち狂って来やがって、
「面白くも無い。」
厨房の中で彼は1人言葉を吐いた。