まず、『日本資本主義発展史講座』とは、何かについて昨日の野呂栄太郎
と不破さんの言葉に加え、これも不破さんの説明を引用します。
「 『日本資本主義発展史講座』 とは何か。それは、日本帝国主義の中国
侵略戦争開始の前夜に、日本共産党の理論家・野呂栄太郎が、大きな意味
で日本の民主的な改革という志を共通にするマルクス主義の研究者たちを結
集して、日本資本主義の過去・現在・前途を分析し、日本革命の展望の科学的
な基礎を明らかにする」仕事でした。
この刊行計画は、1931年春ごろに始まり、同年夏(7月頃)岩波書店との交
渉になります。 ですから「ある日」というのは1931年7月の「ある日」です。もし
それが15日でしたら党創立9年目ということになるのですが。
当然真夏の暑さ、それを上回る「講座の目的を語る野呂とそれを受ける岩波
の二人の決意の厚さ」が想像されます。 その時の話し合いを野呂から聞いた人
の記録を不破さんが紹介しています。
「(略) 『講座』 を引き受けてもらう話をしたときに、岩波さんにこういったというの
です。 『われわれは「講座」の理論的内容について全幅の自信をもっている。それ
はただ執筆者が学者としてえらいだけではない。われわれは敵階級をもっている
のだ、われわれの理論は敵をたたきつけるための理論的武器なのだから、われわ
れの理論活動の成果の「講座」は内容としても敵に勝つだけ十分自信のあるもの
なのだといった。 岩波さんもこれに承服された』。(略)」
その時、岩波茂雄・1881年生50歳、野呂栄太郎・1900年4月生31歳、でした。
『講座』の最終配本・第7回を見届けて三ヵ月後の1933年11月、党中央にもぐりこ
んでいたスパイの手引きで検挙され翌年2月獄中で33歳の生涯を終えます。
岩波茂雄が亡くなったのは終戦の翌年・46年4月、墓は鎌倉・東慶寺にあります。