kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

日めくり「参議院選」予告編。

2016-06-21 22:13:04 | せいじの政治カフェ

あれは三年前でした、その「あれ」とはこれ、

三年前の参議院選で登場した「日本共産党 カクサン部」です。

これは「kaeruのつぶやき」の2013年6月29日の画面の一部です。

 

それが明日からこうなって再三の登場です。

この変身!については、小池書記局長の話を聞いて下さい。

こちらです、30分ほどですので。

http://www.jcp.or.jp/web_mov/2016/06/post-3172.html 

クリックしますと「JCPムービー」になります、そのなかの「動画を見る」をクリックしてご覧ください。


続・「関東惣無事」と「滅亡」

2016-06-20 16:00:19 | 「真田丸」

  『大系 日本の歴史 8 天下一統』は1988年10月刊ですが同じ出版社・小学館からその30年後に『日本の歴史 八 戦国時代 戦国の活力』が出されています。

   著者も違いますので内容が異なるのは当然でしょうが、同じ時代を取り扱っているので読み比べると面白いです。と言っても拾い読みをしているだけですから、中身の浅い感想になりますが「関東惣無事」についていえば『天下一統』の方は昨日紹介した通りですが『戦国の活力』には目を通した範囲では一言も出てこないのです。

追伸 見落としがありました、一ヶ所ありました。

左側に【「惣無事令」違反だと言いだしたのである】と、北条氏に関係するものではなく、伊達政宗に対するものです。


 どちらがと言えば『天下一統』の方が読んでいて納得させられます。信長から始まった天下統一のなかで「惣無事」ということが言われはじめたようです。「惣無事令」についての評価には異論もあるとのことですが、素人としては信長秀吉家康と「天下統一」の動きのなかで支配の制度化をつかんでおきたいと思います。各大名の動向を理解するうえで「惣無事」の説明は必要でした。

では『天下一統』の昨日の続きの前に、

これについては、

【 関白政権における東国政策の責任者は徳川家康が主役となり、上杉景勝は脇役にかわった。そして、九州のばあいと同様に二人の大大名を前面に立て、しかし、政権の奉行衆が秀吉の意を体しながら二人とときに相談し、ときに監視しつつことをすすめるという点で、よりととのった方式がとられるようになった。この関係はまだ完全に制度化されていたわけではないが、あえて図式化するとすれば】としたものです。


   昨日は【 以後の政治史は惣無事令の執行をめぐって展開する 】で締めました。そのあと、

   京の都に伝えられていた「東国の二つの紛争」は、信州上田の真田昌幸をめぐる問題、それに奥州会津の蘆名氏をめぐる問題でした。ここでは真田昌幸関係だけ引用しておきます。

【 天正一四年暮、秀吉の裁定があり、他の信州大名とともの(真田昌幸が)家康の麾下に入り、知行は秀吉によって安堵されることになったが、沼田領問題はかたがつかなかった。当事者である北条氏が豊臣政権に服属しておらず、上野国は政権の版図の外におかれていたからである。

  関東・奥羽を対象とした惣無事令の発動は、北条氏の服属問題を浮上させ、したがって、沼田領をめぐる紛争を政局の焦点にのぼせることになった。

(奥羽における蘆名氏と伊達氏との紛争の経緯に触れたあと)

   惣無事令の発動は二つの紛争を焦点とし、北条・伊達の二大大名の服属を主たるテーマとしながら、関東・奥羽の戦国時代を終わらせる方向へと社会を動かした。】

【 北条氏の滅亡】

【 室町幕府(=京都政権)とは離れたところで独自に領国形成を行なってきた北条氏は、惣無事令に接してもその新しい意義を理解できなかった。むしろ、領国に総動員令をかけて防戦の準備をすすめ、あいかわず戦国大名的な運動を、対応を示した。

「小田原評定」の名がのこされているように、城内の北条氏は和戦の対応決定が長引き、おくれをとった。このあたりにも、戦国的な家臣団統制のあり方を変革できなかった北条氏の「古さ」がのぞいている。】

  このあと北条氏の滅亡が書かれ、次いで伊達政宗の服属に触れて、

【 伊達と北条とのちがいは、政宗はともかくも秀吉の裁定に服する姿勢を示したことが第一、惣無事令の執行をまかされた家康以下による支持が第二、そして第三にわずかな家来を連れただけで堂々と弁明した政宗の人物を秀吉が認めたことがあげられよう。】


「関東惣無事」と「滅亡」

2016-06-19 22:45:51 | 「真田丸」

「真田丸」第24回 「滅亡」は北条家の滅亡を描いていますが、そのキーワードは「関東惣無事(令)」です。NHKの次の「歴史解説」に書かれています。「歴史解説「関東惣無事」 。

それに関連して『大系 日本の歴史 8 天下一統』にはこう書かれています。

「関白の平和」の下の方に書かれているのは、

【 九州の島津・ 大友氏間の紛争と奥羽の伊達・蘆名氏間の戦いに終止符を打たせた秀吉は、関東に北条氏を破ってついに天下を組み伏せる。秀吉による新しい「平和」支配の方法を戦国大名の終焉に対比させて描く】とあります。

文中の「惣無事」に関係する個所を抜き書きしておきます。

【 天正十五年(1587)暮、関東および奥羽地方の諸大名にたいし、いっせいに関白秀吉の直筆が発給された。(略)

「関東惣無事のことを家康に命じたので承知せよ。そむいたなら成敗する」というのが直筆の内容である。(略)

「無事」とは「有事」の反対で、平穏で何事もない状態をいう。この直筆(は)関東・奥羽地域における領土紛争の全面的停止を命じたもの…。

ここでは、それが徳川家康にまかされている。

   家康が上洛して秀吉に臣従の礼をとった際、両者のあいだで東国の諸問題が話し合われた。秀吉は「関東の儀、家康と談合せしめ、諸事あいまかす」と、関東の処置は関白政権の統轄のもと家康に処置させるとの方針を言明した。

関東・奥羽惣無事令は、この地域における武力紛争の停止とその平和的解決を関白政権の裁定にゆだねることをめいじたもので、徳川家康がそれをとりまとめにあたることになったのである。以後の政治史は惣無事令の執行をめぐって展開する。】

北条氏滅亡との関連でもう少しありますが、明日に回します。


七月の季語。

2016-06-18 21:00:17 | kaeruの五七五

   例月の句会が主宰の入院で二ヶ月お休みになっていました。来月六日久しぶりの句会で、季語は「梅雨寒」「蝸牛 かたつむり」「半夏生」。

   各季語の解説と例句を書き写そうと思いましたが見たいTVがありますので、そのまま貼り付けます、お得意の手抜きです。

  今年の半夏生は暦によると七月一日です、この季題が一番難題でしょう。


真田信繁も黒田官兵衛も。

2016-06-17 19:16:58 | 「真田丸」

   素人が寝転がってテレビを見、寝転がって本を広げ、あれは史実と違うとかつぶやいたのが一昨日の「真田信繁か黒田官兵衛か」でした。本当は、という話も寝転がってタブレットをいじっていて分かったような気分になったのですから、かなりインスタントです。

  さて「digital.asahi.com」にこの件に関する三谷さんの話が載っていました。話の前半を省いて関連部分を、

このなかの「つい最近になって分かったこと」に関連していると思いますのがこのブログのコメントにありました。読んでいただきたいと思います。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/29a8a73af1ce53cebb9107231b8af973

一昨日は二者択一だったのですが、実際は両者とも小田原城に行っていたという想定でした。


「てんがらもん」221回 横の旅、横の放送番組。

2016-06-16 20:23:34 | 「てんがらもんラジオ」

   前回川柳は「横の詩」だとちょっと意味不明なことをのべました。横とは横にいる人のことを指します。素晴らしい景色を前にすると思わず横にいる人に声をかけてしまう、そんな気持ちのあり様が川柳のあり様とつながっているという意味です。

  お互いが横に座り語り合う方が、対面するより気持の通い合いが深まるそうです。「横」にはそんな意味も含まれるだろう、などと考えながら今回の向井さんの鹿児島案内、特に指宿特集とでもいうべき話を聴きました。すると向井さんのガイドは、景色ならその光景食べ物なら美味しさ、それらを知り尽くしている故に黙ってはいられず、誰彼となくかけてしまうあの「横の声」ではないだろうかと思えるのです。

   インターネットなども通じて観光名所に関する情報は氾濫していると言えるでしょう。それだけに以前読んだ作家松本清張の言葉が思い出されます。うろ覚えですが、名所旧跡に至るまでの道端の小さな石碑とか、名所の裏側にある塔とかの由来を知ることで名所旧跡を含めたその時代その地域への思いは深く豊かになる、とのことでした。そういう案内が期待できる向井さんの話です。

   あわせてこの「てんがらもんラジオ」そのものが横にいる人に声かけたくなる放送番組だということです。番組のはじめに川柳で特選になった「のびた」さんがブログで「てんがらもんラジオ」を紹介していると村永さんが話していました。点から線、線から面と言われます。1つの点を1人の人とすれば、二三人のつながりは線、その何本かの線を面にしていく働きが「てんがらもんラジオ」にあるのです。


真田信繁か黒田官兵衛か。

2016-06-15 21:26:09 | 「真田丸」

「真田丸」第23回「攻略」へのインターネット上発言される感想で目立つのが「信繁が小田原城へ氏政説得にむかった」ことへの異見です。多くが史実の黒田官兵衛の役を信繁に替えたことに異を述べています。

   私はこの史実も知りませんでしたので、2014年放映の大河ドラ「黒田官兵衛」の該当の回の紹介を見ました、これです。

この時は史実にもとづいて描かれ、官兵衛こと岡田准一さんの勇姿が、

このドラマは一度も見ていませんでした。見ていたらこの映像が頭にあって信繁を以って変えることは認めえないことでしょう。

  さて「真田丸」を「できるだけ史実に近い形で描き、記録が残っていない部分だけ、想像力を膨らませ」るとしていた三谷幸喜さんがあえてこの筋書きにしたわけがある筈です。

  あゝ、あの時信繁が滅ぶべき小田原城に入り氏政を説得する場面があったから、この場面が活きてくる、というようなことになってしまう、という様に想像力を膨らませているのですが、どうでしょうか。特にそれが最終回にくるとすれば言うことなしですが……。


名胡桃城 ー4ー

2016-06-14 20:41:17 | 「真田丸」

NHKの「真田丸」ムービーで北条氏家臣・板部岡江雪斎役の山西惇さんが「名胡桃城は北条のモノ!」と「叫んで」います。

これをクリックして「聴いて」みて下さい。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/movie/movie08.html

『戦国の活力』(小学館 日本の歴史 八 山田邦明著)に「北条領国の解体」という頁に名胡桃城が出てきますので引用しておきます。

【 九州の島津氏を服属させた秀吉は、目を東に転じ、関東と東北の攻略に取りかかった。(一部略) 徳川と上杉という東の大名との関係を固めた秀吉は、彼らの領国の東に位置する関東と東北をその管轄下におさめるべく行動を起こした。

   関東の過半を支配していた北条氏は、家康とは同盟関係にあり、秀吉に対しても反抗的な態度を示していたわけではなかったらが、結果的には秀吉の討伐の対象となってしまう。天正一七年、秀吉は北条氏政・氏直父子に早く上京せよと指示を出すが、これがなかなか実現されず、この年の冬に北条氏の武将猪俣邦憲が真田昌幸の属城である上野の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を奪い取ったことが問題にされて、討伐の理由づけがなされることになったのである。】

  この後「真田丸」では次回の「滅亡」に当たる北条氏の最期が書かれていきます、そして

【 小田原城の開城を実現させた秀吉は、奥羽の仕置を進めるべく会津まで馬を進めた。伊達から没収した会津には腹心の蒲生氏郷を入れ……。八月一二日、秀吉はようやく帰路についたが、帰り道の駿府で小西行長らと面談し、明国への出兵の準備について相談している。小田原城を包囲しながら、秀吉は大陸出兵の構想を練っていたのである。】


上田市 室賀 前松寺、煎餅。

2016-06-13 16:00:03 | 「真田丸」

  兄の葬儀でお経を上げていただいたのは上田市上室賀の前松寺の住職さん、このお寺について 「駆引」はさておいて前松寺 で紹介しました。

「真田丸」の通じて何かと注目されているようで、甥の話では寺へ入る道の角に「案内」が新しく作られたそうです。

NHKの「真田丸 」でも、

山側の古寺の感じが映されています、室賀氏の墓も

   私が兄に案内されて墓地を訪れたのは4分の1世紀以上前のことです。上に記されている「110年ぶりの整備」以前でしたから一般の墓地から裏山に入った一画に古い墓石が幾つか残っているという感じでした。

   「由来」によると「墓塔5基を寺の裏山に移し」とありますが、当時見たのはそれだったと思います。


大河ドラマは色々なところで変化を生み出しています。こんな数字も

それはこんな形で、

「黙れ 小童‼︎」せんべいです、この顔、声です。

それにしても上田では「信繁」ではなくあくまでも「幸村」なのです。