昨日は新・北斎展を見に行って、圧倒されて帰ってきました。
HOKUSAI UPDATED という英文タイトルもついていましたが。
私の感動も日々アップデートされて、記録が追いつきません。ファビオ・ルイージを
聴いて、星岡の春のひな祭りの心にときめき、赤塚植物園で私にとっては珍しい鳥と
春の花に出会い、そして昨日の北斎。音楽だけはほんとうに生もので比較的すぐにアップ
していますが、他はだいぶ遅れてしまいます。
こんなに毎日感動していていいのかと思ってしまうけど、まぁ50年近くほとんど仕事
の日々だったのでこれもありかなと思っています。
つい最近まで「命の見え方」というタイトルで書こうと思っていました。
肺がん検診での疑いとそれがはれるまでの時間の心の動きとか、井上靖の「化石」
を思い出していたり、春が来るというのにT.S.エリオットの詩を思い出したり、
ヘミングウェイの失われてしまうものはすべて持たないというストイックな
生き方とか、最後にはシェイクスピアのテンペストのラストを思い出すのでした。
井上靖の小説では癌だとわかった主人公がその時周りのもの輝いて見えて、
そこからまた普通の世界に戻った時に、すべてのものが化石に戻ってしまうという
生きることの実感が死の淵でほんとうに生きていることを実感するというものでした。
私の場合は影は何かの関係で写ってしまったもので、大丈夫だろうと思いながらも
もしそうだったらと思い、今自分を囲むものがどうでもいいように思えました。
着物への興味も少しトーンダウンしました。本当に近い将来人生の終わりが来ると思うと
それどころではないという感じ。同級生のM君が自分も何回も疑いをかけられたけど
その都度、短編小説が書けるくらい大変だったと言っていました。
何か井上靖の小説とは逆のよう・・周りの世界から色が消えるような感じでやる気もなくなって
しまうような・・残りの日々をやりたいことをやってなんていうのは、終わりの日が決められて
いないから言えるようなものなのかしら・・
私の場合は癌の疑いが晴れてから周りの世界の色が戻ってきたような感じがします。
でもそのあとにT.S.エリオットの春は命が生まれる季節だから虚しいと歌った詩を思い出して
いました。それは死すべき命の持つ永遠のメランコリーかも。
そして今では生と死の間の雲の中を漂う人間のスピリットが、テンペストのラストシーンの言葉に
重なります。
再び私は命の生まれる季節を楽しんでいます。
写真は14日の赤塚植物園で出会った花と鳥