旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

37 田端から東大 Ⅰ

2011-04-16 06:17:51 | 思い出日記
   田端駅北口を出て直ぐ前の田畑アスカタワーに連なってある田畑文士村記念館から始めました。流石に東京、この町にこんなに多くの文士芸術家が住んでいたのかをこの記念館で初めて知りました。展示説明されている名前を暇に飽かして数えると6-70人もありました。明治から正岡子規等が住んでいましたが、芥川龍之介の大正2年の転居を機に様々な文士芸術家が多く住み始めたとのことです。
  明治と言えば、維新前後は生きて行く上でこの時代程社会の動きに左右された時は珍しく無いと思います。例えば、勝海舟と親交あった、江戸最後の南町奉行、佐久間ばん五郎(ばんの漢字が見当たらない)は維新後、彼自身見習い勉強から徒弟制度がある指物師(文具、障子等、板を組み合わせて作る職人)に、自分で望んだと思われるとは言え、旗本から転職したのです。

  マスマス話が外れますが、面白いのは、地見と言う稼業、その字の如く地面を見て徘徊し、落ちていたり、銀行が無い時代にはお金を隠しもったので、物陰に隠してあったりする金銭を頂戴すると言う稼業。古くて新しい稼業となりますが、現在もホームレスの人がたまにやっているのを見た事があります。

  封建時代から開放されて生きて行く、生まれる時期場所において、いつの時代でも凄く差があると思いますが、こればかりは選べません。
 歴史上の人のみか脚光を浴びて一般人はどうしたのか、私も勿論一般人ですが、資料は少ないので分るのは難しいです。時代についていけない人たちが、何と言っても苦難の時だったと思いました。その時代が 我々のわずか数代前に、まさに、激動の時、色々な事が起こったはずなのです。

 そんな事も考えながら、室生犀星、平塚らいてう、堀辰雄などそうそうたる人々の説明と共にビデオと遺作が展示されていて、入場料は嬉しい無料。こんな所でも東京は恵まれていると思うのですが、この日が3度目のこの地への訪問で町の原点を勉強することができました。

 田畑文士村記念館でしばし勉強の後、訪れたのは八幡神社、その隣の正岡子規のお墓もある大龍寺は新しいものでした。この町も終戦年の空襲で壊滅的な被害を受けたとのことでした。この町に誇りを持っているのか、何でも田端がついている街、田端公園を過ぎると室生犀星と菊池寛旧宅跡、今度は田端では無い滝野川小学校の裏手の細い路地を経てポプラ坂へと行きました。 
ポプラ倶楽部と言うテニスコートがあったので命名された坂で、ポプラ並木が存在するような立派な坂道ではありません。降り口右手のクラブ跡には保育園があり2階建ての安アパートが連なる細い道でした。

 コの字に折り返し駅方向へ駅前通りの小台大通を川のように下に見て橋を渡り芥川龍之介旧居跡。いくら探しても碑の一つも残念ながら見つけられませんでした。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 36 洋食レストラン コロナ | トップ | 38 田端から東大 Ⅱ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

思い出日記」カテゴリの最新記事