昨日の記事での引用の最後の方に名前が出てきたジャンケレヴィッチについては、もう何度かこのブログでも取り上げてきたが、ずっと気になっている哲学者ではあるのだが、ときどき拾い読みする程度で、その少なくはない著書のどれか一冊をきちんと始めから終わりまで読んだことはこれまでない。手元にはそれでもその著書は十冊ほどある。日本にも熱心な読者が増えているようで、主要な著作はだいたい訳されているようである。
今日(31日)は、Françoise Schwab というジャンケレヴィッチ全集を編集中の研究者が、ジャンケレヴィッチへの死の問題についてのインタヴュー四つを、それらに自身の手になる前書きを付して一小著にまとめた Penser la mort ? (Paris, Liana Levi, 1994) を読んだ。その前書きに、ジャンケレヴィッチの他の著作からいくつか引用されていて、その一つは大著『死』からのそれだった(この本は1966年に Flammarion 社から初版が出ているが、これはすでに絶版で、古本でしか入手できない。1977年からは 同社のポケットサイズのコレクション « Champs essais » の一冊として出版されている。邦訳は仲澤紀雄訳が1978年にみすず書房から出版されている)。
その引用で、ジャンケレヴィッチは、マルクス・アウレリウスの『自省録』の第7巻48章の一節を引用しながら、自分を産んだ大地を讃え、実らせてくれた樹に感謝しつつ落ちてゆく果実の姿に、人はなぜ慰めを見出すことができないのか、と問う。しかし、そこでは、時至れば、この問いを検討しなければならないだろうと最後に加えるだけで節を締め括っている。
原文は以下の通り。
L’olive mûre, dit Marc-Aurèle, tombe en bénissant la terre qui l’a portée, en rendant grâce à l’arbre qui l’a fait croître. Mais pourquoi sommes-nous si peu convaincus par cette gratitude de l’olive ? Pourquoi toutes ces belles consolations sont-elles si peu consolantes ? C’est ce que, le moment venu, il nous faudra examiner (Vladimir Jankélévitchi, La mort, Flammarion, coll. « Champs essais », p. 392)
まだジャンケレヴィッチが同書でこの問いに立ち戻っているところまで読んでいないが、今は先を急ぐよりも、マルクス・アウレリウス『自省録』の当該箇所の神谷美恵子による格調高い訳文を掲げ、しばしそこで立ち止まろう。
だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安からに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝を捧げながら落ちていくように(マルクス・アウレリウス『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫、68頁)。