内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「花よ」― 〈ことなり〉のおとずれ

2013-11-21 06:51:00 | 講義の余白から

 今日(20日水曜日)のイナルコの講義は、昨日の記事で話題にしたように、時枝誠記がテーマ。本題に入る前に、日本語の特性をその深層から理解させてくれるであろう時枝の日本語理論が、なぜ、フランスの日本学者の間では、軽んじられているか、さらには無視されているか ―私にはどうしてもそう見えるのだが、その理由がどこにあるのかについて少し触れた。おそらく、少なくともその理由の一つは、時枝が植民地時代の朝鮮の日本語普及に関与し、皇民化政策の時期には、朝鮮人に対し朝鮮語の完全なる廃棄と日本語の母語化を求め、さらにその具体的な方策として朝鮮人女性への日本語教育を重点的に行うことを訴えたとされていることがあるだろうと思われる。戦時下の日本帝国主義への政治的関与と事後的に十把一絡げにされるような日本の学者たちの行動に対して、フランス人研究者たちは、あからさまに口にこそ出しはしないが、一様に非常に警戒的、さらには教条的に批判的である。同じ理由で、西田、田辺に対しても、ほとんど一顧だにしようとしない。日本学者であるにもかかわらず、まともに原テキストを読むことなしに、一度「日本帝国主義への協力者」とレッテルを貼られた思想家たちに対してこのような非学問的な否定的態度を取ることが一般であるように見えるのは、果たして私の僻目なだのだろうか。そうであってほしいと切に願わざるをえない。
 さて、講義の本題であるが、すでにこれまでの講義の中で〈主観〉と〈主体〉の違いについては繰り返し言及しておいたので、学生たちはそこまでは一応理解してくれたようなのだが、時枝のいう「場面」を理解させるのには予想以上に手間取った。例えば、「場面は純客体的世界でもなく、又純主体的な志向作用でもなく、いわば主客の融合した世界である。かくして我々は、常に何等かの場面に於いて生きているということが出来るのである」(『国語学原論(上)』岩波文庫、60-61頁)という箇所を引いて、このような場面においてしか言語活動は可能ではないという時枝の主張を理解させるのは必ずしも容易ではなかった。日本語を学習しているとはいえ、常にフランス語で思考している彼らにとって、〈主体〉もそこにおいて初めてそれとして分節化されてくるような世界というのは、そう簡単に理解できるものではないのだ。
 〈詞〉と〈辞〉の説明のところでは、これは予想通りだったのだが、非常に強い関心を彼らは示した。「詞辞の意味的聯関」と題された短い節(同書265-271頁)を一文一文丁寧に解説しながら読んだのだが、それを聴いて、これまで腑に落ちなかった日本語の特性について、「なるほどそういうことか」と得心がいったところがあったようだ。時枝がその節で例として最初に挙げている「花よ」という表出について、ある特定の〈場面〉において、一方で、花という客体のそれとして分節化(〈ことなり〉の現実化)があり、他方で、「よ」によって主体の情感表現の分節化(これもまた〈ことなり〉の現実化)が顕現し、それによってその〈場面〉そのものが自らを「ことならせる」ということを特に念入りに説明した。
 昨日の記事で述べたような講義計画、つまり、時枝理論とフランスの言語学者リュシアン・テニエールの構造統語論との共通問題を際立たせて、それによって開かれる問題場面において西田の述語論理を考察し、そこからさらに西田の場所の論理の核心に迫るという、どう考えても向こう見ずな計画は、やはり二時間という枠では実現不可能だった。最後15分でそれらの問題を点描的に示すのがやっとであった。