1943年、スピノザについての論文を書いて21歳で学業を終えるとすぐに、アンリは、レジスタンス活動に身を投ずる。アンリの一歳半年上の兄は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に組織された最初期のレジスタンス運動からすでに活動に参加していた。このレジスタンス活動を通じてアンリに啓示された思想について語っているくだりは、当時の経験が後の彼の生命の思想にとって決定的に重要な原初的な確信をあたえたことを示しているだけではなく、その経験がラヴェルの戦争時の経験と思想的に重なり合う部分を持っていることをもまたよく示している(と同時に、両者の哲学の志向性の違いもまたそこに見て取ることができるのだが、今回はこちらの問題には触れない)。
レジスタンス活動の経験は、確かに、私の生命の思想に深い影響を及ぼしました。非合法活動は、私に日常的にかつ鋭く身分隠蔽という事実を実感させました。この全活動期間を通じて、自分が考えていること、そしてさらには自分が行っていることを隠さなくてはなりませんでした。この恒常的な欺瞞のお陰で、真の生命の本質が、つまりそれは目に見えないということが、私に顕にされたのです。最悪の時期、世界が残虐な姿を見せていたとき、私は、この生命の本質を、守るべきかつ私を守ってくれる秘密として、我が身のうちに痛感したのです。世界の顕現よりも深くかつ古い顕現が私たち人間の条件を決定していたのです。この人間を「政治的動物」と定義することはもはや不可能でした。
それは、「政治的・イデオロギー的」次元というものについての私の理解もまたこれら出来事に拠っていたということです。ある意味で、これらの出来事は、歴史を舞台の最前面に押し出しますが、しかし、それは、私たちの生活・飢え・恐怖・生死が、各瞬間、歴史の動きに依存していたというかぎりにおいてです。ところが、それと同時に、社会という神話 ― 各々が自己実現をそこで見出すとされた古代ギリシアの都市国家という神話 ―、これもまた修復不可能な打撃を受けていました。この光に満ちた空間、そこに私たちすべてが居り、私たちの本当の住処となるはずの、私たちがもはやそこから想像された天上界へと逃げる必要のないこの空間が、武器の暴力・密告・闇市・拷問・多くの人たちにとって惨たらしい死・すべての人たちにとって恐怖の空間だったのです。救いといえば、夫婦あるいは家族にまで縮小された一つの共同態の中に密やかに辛うじて保たれていました。その共同態の広がりはせいぜいのところ非合法活動グループどまりでしたが、それでさえすでに人が多すぎたのです。というのも、常にスパイ潜入と裏切りに脅かされていたからです。その時すでに、私は、個人の救いは世界から個人へやってくることはありえない、ということを理解したのです(Entretiens, op. cit., p. 13-14)。
ラヴェルの第一次世界大戦時の最前線での戦闘体験および捕虜収容所体験と、アンリの第二次世界大戦時のレジスタンス活動経験とを引き合いに出したからといって、彼らが経験したような極限状況に置かれなければ、私たち人間に真の生命の本質はわからないなどと主張したいのではもちろんない。ただ、一度得られた後は生涯揺らぐことがなかった彼らの初元の確信がどのような情況下で彼らにもたらされたのか、彼ら自身がそれについて語る言葉に耳を傾けることによって、その生き方そのものが生きた哲学であるようなこれら稀有な魂の軌跡における哲学の始まりの在処に立ち戻ってみたかっただけである。
私は、彼らの著書を紐解き、そこに彼らの精神の肉声を聴き取ろうと努め、その生き方を遠くから仰ぎ見ているに過ぎない。覚束ない日々を呻きながら這いずり回っているだけの肉体を持て余し、ほとんど絶望しかけており、それでも為す術なく、その肉体を引きずりながら、あてどなく荒野を彷徨っているだけであるかのようなこの私の弱り疲れた魂の裡にも、真の哲学的思索の炎が、たとえ細々と揺らめくだけであったとしても、点ることがあるだろうか。