今日(25日月曜日)は、一日水曜日の一年生の日本文明の講義の準備。一三世紀の文学思想と歴史思想というテーマで、鴨長明の『方丈記』と慈円の『愚管抄』について話す。前者については、先週既に紹介を始め、日本語を習い始めたばかりの学生たちにかの有名な冒頭を原文で読ませるという暴挙に出たが、ほとんど平仮名に書き直した本文を与えたせいか、十三世紀初めに書かれた文章が、たとえ部分的にであれ、自分たちにもわかることが嬉しい驚きだったようだ。それに「味をしめて」、明後日は、慈円の『愚管抄』を中心に話す。さすがにこちらは難解をもって知られている原文であるから、現テキストを読ませるわけにはいかないが、同時代の出来事を「道理」を導きの糸として、当事者としていわば内側から理解しようとする試みとして、自分が生きている時代を歴史的に理解するとはどういうことなのかという普遍的な問題を提起しているということに特に注意を促したいと思っている。来週の前期最終回では、いよいよ鎌倉新仏教について話す。
午後、講義の準備に一区切りついたところで、数カ月ぶりに15区の Keller というプールに行った。おそらく毎日同じ時間帯だと思うが、二時過ぎから一時間半ほど、小学生から中学生くらいだろうか、シンクロナイズドスイミングのジュニア・クラスの少女たちが練習にやってくる。一般の利用者のすぐ脇の一コースがその間だけ貸し切りになる。その練習中の彼女たちの水中での動きは、まさに水の妖精と呼ばれるにふさわしい。技術的には未熟なのだろうけれど、それにしてもその水中での自在な動きには見惚れてしまう(その脇でちゃんと泳ぎましたよ、私も。念のために)。と同時に、シンクロナイズドスイミングがいかに過酷なスポーツであるかもよくわかる。彼女たちは、錘を体につけ、一旦水中に体全体を沈めた後に、水面上できるだけ高く両足を上げる練習を繰り返すことがあるが、その間の水中での手の動きの規則的かつ目まぐるしい動きを見ていると、それら水面下での動きを見なければ、シンクロナイズドスイミングの半分も見たことにならないとさえ言えそうだ。
彼女たちの水中のイメージにふさわしい曲は何だろうと考えて浮かんだのが、ラヴェルの「水の戯れ」だった。演奏は、先日の記事でも言及したアンヌ・ケフェレック。この二枚組のラヴェルのピアノ曲集は本当に素晴らしい。私の愛聴盤の一つ。