今日(木曜日14日)はいつもの自分の授業の前に、別の授業の課題として翻訳という仕事についてレポートを書く準備をしている学生たち三人からの質問に40分間ほど答え、授業の後には、修士二年生のインターシップ・レポートの口頭試問が二つ。その一人は学部一年から知っている学生で、よく勉強するし、とにかくクラスの雰囲気を明るくしてくれる学生だった。もう一人は学部をグルノーブル大学で修了して修士から入ってきた学生。学部の最後の一年は京大に留学していたので、日本語も最初からよくできた。授業態度も模範的だった二人がこうして修士課程を優秀な成績で終えたことを嬉しく思う。彼女たちがその能力に見合った仕事を見つけることを心から願わずにいられない。
今日の記事のタイトルに掲げた曲を初めて聴いたのは今から25年以上前のこと。まだ東京に住んでいる時だった。日頃からいろいろとお世話になっている方が、高級オーディオ機器でいろいろな音楽を聴かせてくれるサロンにある日連れて行ってくださったことがあった。そこで、この2月に亡くなられたマリー=クレール・アランのオルガン演奏でこの曲を聴いた。前奏曲の緩やかなテーマの序奏を聴いただけで、私ばかりでなく、その場にいた人たち皆がそのメロディーに吸い込まれるように、曲に聴き入った。なぜだろう、初めて聴く曲なのに、心に沁み入るというだけではなく、懐かしく感じるのは。そんなことを感じていると、フーガに入り、バッハのような構築性はないものの、重厚な音の建築を通過すると、あたかも水中を下降するような音形を経て、最初のメロディーに戻る。その間わずか数分である。にもかかわらず、その再び到来した同じメロディーに限りない懐かしさを感じる。ああ、また戻って来てくれたのだね。それはまったく予期していなかった最愛の人との再会に似ていた。その時の感動を忘れることができない。そんなに気に入ったのならプレゼントしようと、その方はそのアルバムをその場で購入して私にくださった。以来、全部で10分程度のこの曲をいったい何度聴いたことであろう。フランスに来てからしばらくは音楽を聴くまともな装置さえなかったし、今も安物の機械しかないが、それでもある時ふとどうしてもこの曲が聴きたくなり、同じ演奏をCDで探したが、見つからなかった。数年前、アンドレ・イゾワールの演奏の同曲を見つけ、それを繰り返し聴いた。その後、この原曲のハロルド・バウワーによるピアノ編曲版があることを知り、いくつかの演奏を聴いてみたが、私にはセルジオ・フィオレンティーノの演奏が一番心の深いところまで響く。今その演奏を聴きながらこの記事を書いている。このピアノ演奏を聴くたびに、精神の故郷ということを想う。他方、その最愛の人に、この曲を聴きながら、この曲をメイン・テーマとした映画の構想について自分のアイデアを話したことがあったことを思い出した。それくらいこの曲を聴いていると具体的なイメージが湧いてくる。愛聴してやまないフィオレンティーノの諸演奏については、またあらためて書きたいと思う。