プレ・プログラムを含めれば、すでに昨晩(5日夜)から、「ベルクソン国際シンポジウム」がパリ国際大学都市の日本館で始まった。当初の予定では Écoles normale supérieure rue d’Ulm が会場だったのだが、シンポジウムに適した部屋がちょうど改修中ということで急遽変更になったと主催者側から説明があった。主催者も残念がっていたが、致し方のないことではある。今日(6日)は、午前午後にそれぞれ三つの発表が予定されていたが、トップバッターが急遽入院手術ということで欠席となり、午前中は二つだけだった。私にはどちらも、こちらの準備不足ということもあり、今ひとつよく理解できなかったし、結論には納得しがたいところもあった。私は午後イナルコの講義をいつも通り行うので、午前の部の終わりで他の参加者たちに暇乞いをして辞去した。講義は午後5時半からだから、先週までは午後の発表もぎりぎりまで聴くつもりでいたのだが、その肝心の講義の準備が捗らず、午後をその仕上げに充てなくてはならなくなり、やむなく諦めたという次第。
そのイナルコの今日の講義は和辻哲郎の倫理学がテーマで、内容からしても、原文の日本語の難易度からしても、比較的扱いやすいテーマだし、今年で4年連続取り上げていることになるので、資料も揃っており、準備も簡単に済むと高を括っていたのが間違いだった。新たな参考文献を読んでいると、そこから付け加えるべきこともいろいろ出て来て、それらを整理するのにすっかり時間がかかってしまった。しかし、学生側からすれば、西田や田辺に比べれば、やはり近づきやすい哲学者であるには違いない。九鬼周造も、エッセイは読みやすいし、『「いき」の構造』も原文は決してとっつきやすいとは言えないけれど、タイプの違う二つの仏訳があって、そこまでならば扱いやすいと言えるけれど、主著の『偶然性の問題』は、たとえ澤瀉久敬の仏訳で読んだとしても、相当に手強いだろう。だから、九鬼と比べても和辻は扱いやすい。それに、オーギュスタン・ベルクによる『風土』の仏訳があるので、その中から倫理学的要素に触れているところを引用できるという点でも都合がいい。ただ、やはりあの記念碑的大著である『倫理学』について、もっと本格的に取り上げるのが、和辻哲郎の紹介としては本筋だろう。それは来年以降を期したい。
今日の講義では、その日本語の流麗さ、美学的直観の鋭さ、文学的センス等の故に、和辻の著作には広く一般読者に受け入れられたものも多いという点で、西田や田辺とは違い、哲学者・倫理学者としてばかりでなく、文化史家・思想史家としても大きな仕事を残したという点で稀有の思想家だということを前置きとして述べ、文芸創作者を夢見ていた若き日、漱石の思い出、ケーベルへの敬愛、『古寺巡礼』、特にその初版に見られる初々しく鮮烈な表現、留学時のエピソード、渡航の船旅の途上で見た中国、インド、アラビア、エジプト、そして地中海などの気候・風光が残した強烈な印象等に触れた後、『風土』の第一章の原文抜粋とその仏訳を読み比べながら、そこから読み取れる和辻倫理学のいくつかの重要なポイントを確認したところで残り時間10分となり、予定としてはその後『人間の学としての倫理学』の原文からの抜粋を、一文一文読んで訳をつけ、コメントを加えながら、和辻倫理学の基本構造を粗略な仕方ながら描き出すつもりであったがそれは諦め、その代わりに、これまで取り上げた四人の哲学者、西田、田辺、九鬼、和辻に一つの共通する問題である〈個〉の位置づけについて図式的に系譜づけをし、これからの講義内容への一つのガイドラインを示して講義を終え、さっき帰ってきたところ。
今晩は、夕食を済ませた後、明後日の発表のために小林論文の仏訳代読と自分の発表のためのパワーポイントづくりで深夜までかかることだろう。