今日(26日火曜日)、朝から窓枠の補修とペンキ塗り直し(この夏に私が日本に行っている間に行われるはずだったのが、こんなに寒くなった晩秋の今になってやっとですよ)のために職人さんが入り、普段の仕事部屋が使えず、台所の隅の小さなテーブルで明日のイナルコの講義の準備をする。午後、一段落したところで、昨日と同じく妖精たちのプールに行き、その後自宅近くのカフェでしばらく講義の準備を続ける。
明日取り上げるのは、家永三郎。家永は思想史家・文化史家であって、哲学者とは言えないし、彼自身がそのように方法論的にも自分の立ち位置を決めて、それを『田辺元の思想史的研究』の結論の末尾で明言していることは、9月14日の記事で引用した通りである。その思想史家そして思想家としての家永も、フランスではまだまともに研究されているとは言えず、わずかに教科書裁判や『太平洋戦争』『戦争責任』等の著作によって一部の日本学研究者に知られているにとどまっているのが現状である。著作の仏訳としては『日本思想史に於ける否定の論理の発達』のそれが2006年に出版されているだけ。因みに、英語圏では、上記の著作の他にもいくつか訳されており、立派な家永研究も出ている。
明日は、だから、まず家永三郎の実に多様かつ膨大な業績についてざっと概観し、特に32年に渡った教科書裁判の持つ戦後日本における思想的意義を説明した上で、家永思想史学の方法論について、いくつかの日本語原文の抜粋を読みながら、いくらか立ち入って説明をする。その後、残った時間で、1940年家永が27歳で出版した最初の著作である『日本思想史における否定の論理の発達』に見られる思想史の方法論の具体的適用例をテキストに即して考察する。この著作を取り上げるのは、仏訳があるという利点のみによるものではない。私に特に重要だと思われるのは、1974年に出版された『田辺元の思想史的研究』の「あとがき」(1973年9月末日記)で、家永の戦前の歴史研究と戦後の社会活動との間の有機的連関がよくわからないという疑問に触れて、それを「氷解するに足りる、私自身からの解答の必要を痛感せざるを得なかった」と述べ、「私の精神生活の出発点で絶大な影響を受け、その後も長期にわたり少なからぬ示唆を与えられてきた田辺哲学を、私の専門とする思想史学の対象として客観的に再評価してみることが日本近代思想史の重要なテーマに対する研究となると同時に、私個人の四十年近い思想歴の「総括」にもなるのではないかと気づいた」(『家永三郎集』第七巻475-476頁)と同書の執筆動機を家永自身が説明していることである。つまり、同書にまで至る家永の思想的立場・思想史学の方法論の一貫性について検討するためには、田辺哲学の影響下に形成された問題意識に基づいて執筆されたその処女作にまず立ち戻ってみる必要があるのである。