ルイ・ラヴェルの哲学については、主にルイ・ラヴェル協会の会員たちの熱心な研究・普及活動のお陰で、数十年間絶版だったその著書のいくつかがここ20年ほどの間に、特に2003年以降は毎年のように復刊されるようになり、また定期的な研究会やかなりの規模の国際学会も開催されるなど、再評価の動きが目に見えて活発になってきている。2006年に出版されたラヴェル哲学についての論文集 Autour de Louis Lavelle. Philosophie Conscience Valeur, coordonné par Jean-Louis Villard-Baron et Alain Panero, Paris, L’Hatmattan には、ラヴェル哲学研究に長年貢献してきた碩学たちとラヴェル哲学に新たに関心を持ち始めた若手研究者たちによる論文が六本収められていて、ラヴェル哲学の広がりと深さをそれらの研究成果の中に見て取ることができる。
その巻末に、ラヴェルが1938年に行ったラジオ対談の記録が収録されており、その中に対談者 Frédéric Lefèvre の求めに応じて当時55歳だったラヴェルが自身の幼少期について語っているくだりがある。
あなたのご質問に答えながら遠い過去のことを思い出していると、当時私の心を惹きつけた唯一の事柄は、身につけることができ、絶えず私たちの好奇心を新たにする諸々の知識ではなくて、私たちに私たち自身を発見させる諸感情と私たちを取り巻く諸存在へと私たちを結びつけている生き生きとした諸関係でした。今日もなお、それこそが生命を成す真の現実だと私は考えています。おそらく、哲学的思想とは、生命が私たちに与え、たとえその強度は可変的ではあっても私たちを離れることは決してないある情動を深化させること以上のことではないとさえ言わなくてはならないかも知れません。ところが、私が自分の記憶の中に見出す最も古い情動は、きわめて単純なもので、またきわめて鋭敏なものです。それは、世界の一部をなしているという情動です。とはいえ、諸事物の中の一事物としてそうだということに尽きるのではなく、「私」と言うことができる存在として、自らに固有の意志を持ち、それを用いることによって世界を変えうる存在として、世界の一部をなしているということです。小指を動かすことができるというこの単純な可能性が、ほんの小さな子供だった頃から、私には常に変わることのない奇跡のように思えたのです。これは今でもまったく同じ驚異の念とともに絶えず経験し直していることです。幼少期に与えられたこの単純な可能性が、私の中に次のような確信、それ以降今に至るまで私の人生において絶えず確証され経験され続けている確信を生まれさせたのです。その確信とは、現実は、時間の中を流れ、霧消していくものではなく、つねに現在・現前するもので、それを私たち以前にも以後にも探してはならず、私たちが今居る場所、動いているその瞬間に見出さなくてはならないという確信です。この現実は、それをあえて真正面から見つめ、我が事として引き受ける素直さと勇気を持ちさえすれば、私たちに驚嘆すべき充溢とともに贈り物として与えられます(同書144-145頁)。
この驚嘆の念とともに自覚された原初的な可能性がもたらす確信がラヴェル哲学の常に始まり続ける始まりであり、この確信は、高等教育教授資格所有者の特権を行使すれば応召しなくても済んだ第一次世界大戦に31歳で一兵卒として志願して前線に送られ、そこで虜囚となり、大戦の最後の2年間程を過ごした俘虜収容所において、更に強固なものとなる。
この対談を読みつつ、私は別の二人のフランス人哲学者のことを想った。一人はミッシェル・アンリ(1922-2002)であり、もう一人はジャン・カヴァイエス(1903-1944)である。後者については、一度連載を予告しておきながら、やはりまだまだ準備不足で、しばらくは始められそうにない。だが、年内には、カヴァイエスの生涯を語るところから始めたいとは思っている。前者については、明後日一度簡単な記事を予定しているが、アンリ哲学との正面からの再対決は、博論以降懸案のまま10年(!)が過ぎでしまっており、来年以降追々記事にしていくことをその助走としたい、いや、する(定言命法)。
この二人の哲学者とはまた別に、ラヴェルの上に引用した一節を読みながら、ゆくりなくも一人の日本の詩人を想い起こした。宮澤賢治である。その37歳での早すぎる死(否、その詩人としての生命を十全に生き切ったと言うべきではないか)の十日前、昭和8年(1933年)9月11日に書かれた柳原昌悦宛書簡の次の一節を思い出したのである。
風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどどいふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。