内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

腸にしみわたる新しい命の「旨さ」― 漱石名句集(3)

2015-12-10 21:47:13 | 詩歌逍遥


腸に春滴るや粥の味

 『思い出す事など』「二十六」(明治四十四年一月二十四日『東京朝日新聞』に掲載)の末尾に置かれた一句。生死の境を彷徨った大患のあと、ようやく流動食以外のものを食べることを許され、粥を食べた前年秋のことを思い出して生まれた句である。今、「思い出して」と記したのは、この句には、「骨の上に春滴るや粥の味」という初案があり、これは十月四日の日記に書きつけられている。この初案は、大患後粥を実際に初めて食べた時の実感に即して、その直後に作られた一句である。秋であるにもかかわらず、春としたのは、文字通り、骨と皮だけとなり、死のほとりで息絶えようとしてた体が蘇り、再生していく実感に見合う季節は、春でなければならなかったからであろう。実際、『全集』第十七巻を見ると、初案の直前に置かれた同日作の句は、「蘇へる我は夜長に少しずゝ」である。十月十日の日記に書きつけられた句の中には、「骨許りになりて案山子の浮世かな」との一句もある。
 新春を迎えて、前年秋に大患後初めて粥を食べることが許可されたときのことを思い出して、漱石は、次のように『思い出す事など』「二十六」の最終段落に記している。

 やがて粥を許された。その旨さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから、実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。

 そして、この日付の随筆の末尾に、上掲の句が置かれているのである。初案の「骨の上」が「腸」に改められているのは、粥の「旨さ」がしみわたるのは、やはり腸でなくてはならないからであろう。この一語の置き換えが、「冷やか」な記憶を温かい粥の味として蘇らせている。
 昨日紹介した仏訳漱石俳句集から、この一句のそれを引いておこう。

Sur mes entrailles
Le bouillon de riz
Verse trois gouttes de printemps