随筆、小品、講演、俳句、漢詩、書簡、日記等は除くとして、漱石の全作品中、どの作品が一番好きか、と聞かれれば、私はあまりためらわずに、『門』と答えるだろうと思う。
好き嫌いを離れて、作品の出来、構成、筋の展開、登場人物の造形、込められた思想の深さなどを基準にして客観的に判断すれば、『門』を漱石第一の作品と認定することは難しいであろう。そういう批評家的判断は措くとして、私が愛着をもち、何度読んでも感嘆するのは、『門』の冒頭「一の一」の宗助とその細君(とてもいい言葉だと思うのですが、もう死語に近いのでしょうか)御米の会話である。
私はあまり小説を読まないので、いろいろと比較した上でこう言うのではないが、これほど絶妙な夫婦の会話というのはめったに読めるものではないのではないだろうか。
今回、二つの仏訳と比較しながら、長さにして三頁ほどの「一の一」を読みながら、新たに気づかされたのは、二人の言葉のやりとりの場面を構成している背景的諸要素の組み合わせが実に効果的なことである。秋日和、澄み渡った空の下、縁側で、「自然と浸み込んで来る光線の暖味」を貪るように味わっている宗助に聞こえてくるのは、まず「往来を行く人の下駄の響」である。二人のとりとめのない短い会話の後の沈黙の中、「外を通る護謨車のベルの音が二三度鳴った後から、遠くで鶏の時音をつくる声が聞えた」とある。
今日でも、秋日和のぬくもりを味わうことはできるだろう。しかし、縁側は、もう都会ではほぼ消失してしまっている。そして、今回何よりも、痛切に思ったのは、失われた「音の風景」のことである。「往来を行く人の下駄の響」も「護謨車のベルの音」も、もう聞くことはできない。
こんな風景を映画化できたであろう監督がいたとすれば、それはやはり小津安二郎であろうか。