もし最善が始まりにおいてあり、最善が原理であるならば、どうしてそのままそこにとどまらなかったのであろうか。最初に最善最良のものが与えられているのならば、どうしてそこから離れなければならなかったのだろうか。
古代ギリシャ・ローマの英雄譚も、ユダヤ・キリスト教の全歴史も、この根本的な問いへの答えの探究のプロセスとしてラヴェッソンは捉えようとしていたのだと私は見る。その始まりからの乖離を、あるべき姿からの逸脱として、ただ否定的に捉えるのではなく、ひとつのプロセスとして捉えることを可能にするパースペクティヴを開くこと、これがラヴェッソン哲学の根本的なプログラムだったと私は考える。ラヴェッソンの言う「英雄的な哲学」とは、このプロセスを、独りで、すべての人たちのために、歩み抜こうとした哲学のことなのである。
この連載を今日の記事で閉じるにあたって、連載第一回目に引用した『遺書』最後の段落をもう一度引用する。
Détachement de Dieu, retour à Dieu, clôture du grand cercle cosmique, restitution de l’universel équilibre, telle est l’histoire du monde. La philosophie héroïque ne construit pas le monde avec des unités mathématiques et logiques et finalement des abstractions détachées des réalités de l’Entendement ; elle atteint, par le cœur, la vive réalité vivante, âme mouvante, esprit de feu et de lumière (p. 120).
神から離れ、神へと回帰し、大いなる宇宙的円環が閉じられ、普遍的な均衡が回復される。これが世界の歴史である。英雄的な哲学は、数学的・論理学的単位によって世界を構築せず、〈悟性〉の現実から切り離された諸々の抽象化の結果として世界を構成するのでもない。英雄的な哲学は、心によって、生き生きとした生ける現実に、躍動する魂に、燃えるように光り輝く精神に到達する。