一昨日の記事で話題にしたことだが、来年二月に予定されている勤務大学図書館主催の「日本文化週間」で、日本学科三年生の有志たちが俳句についての展示会のためのパネルを作成することになっている。
明治以後に限っても、しかも特に有名な俳人たちだけを紹介するにとどめるにしても、何の予備知識もない学生たちに俳人とその作品の選択を任せるわけには到底いかず、私が選択することになっている。それにしても、偏りなく満遍なく紹介するというのはとても無理な話だから、フランスでもすでにその名がよく知られ、作品の一部が仏訳されている俳句作者に限定することにした。
そうなると、最初に紹介すべき二人は、正岡子規と夏目漱石ということになる。
幸いなことに、漱石俳句には、日本語でもこんなに洒落た造本の句集はあまりないのではないかと思われるアンソロジーがある。日本文学の仏訳に多大な貢献をしている Philippe Piquier という出版社から、2001年に単行本として、2009年にはポッシュ版(こちらをご覧あれ)として刊行されている。同書には、漱石の筆になる水彩画、水墨画、自作の俳句を墨書した短冊などのカラー印刷が、句集の最初から最後まで、すべての見開き二頁の左右いずれかの頁に配されている。それを見ながら、その脇の仏訳を読む味わいは、また格別である。ポッシュ版は、僅か8ユーロであるから、一昨日の学生たちとのミーティングの際にも、是非読みなさい、と言うよりも、声に出して読んで自分の「口で味わって」みなさい、と薦めた。
以前このブログでも紹介した一句、
菫ほどな小さき人に生まれたし
は、それを墨書した漱石自筆の短冊だけが左頁の真ん中に掲げられており、右頁の一番上にその仏訳が配され、さらに他の二句がその下に続く。上掲の句の仏訳は、こうなっている。
J’aimerais renaître
Si c’était possible
Aussi modeste qu’une violette
ミーティングの席で、この一句そのものとその仏訳とを声に出して読んだのだが、それだけで学生たちに何かが伝わったことが彼らの表情からわかった。彼らの俳句への関心が高まったことは言うまでもない。
追記 仏訳句集に収められている短冊の写真版(このブログの写真でも確認できる)は、『図説漱石大観』から借用されたもので、『漱石全集』第十七巻(岩波書店、1996年)の当該句の脚注にあるように(204頁)、そこには「菫ほどの小さき人に生まれたし」とある。この「菫ほどな小さい人」というイメージは、漱石にとって愛着のあるものだったと思われる。同脚注には、小品『文鳥』から、「菫程な小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁盤でもつづけ様に敲いて居る様な気がする」という一文が引用されている。