ラヴェッソンの『哲学的遺書』が後世への遺言として伝えようとしているのは、一言にして言えば、« générosité » の哲学(「寛仁」の哲学、あるいは「高邁」の哲学)である。
この « générosité » という至高の道徳的価値は、昨日の記事で最後に引用した1893年の論文 « Métaphysique et morale » の中で、最も深遠な思想家たちの省察から生まれた形而上学の実践面における理想として、すでに提示されている。
Générosité, le mot le dit, c’est noblesse. Le généreux, dit Descartes, c’est celui qui a la conscience en soi d’une volonté libre par laquelle, indépendamment des choses, il est maître de lui-même. Ajoutons : d’une volonté qui vient de plus haut que lui, et qui l’affranchit de sa propre individualité, laquelle, exclusive, serait l’égoïsme, et le porte, comme dit Pascal, au « général ». Cette volonté libre que le généreux éprouve en soi, il la reconnaît comme une pièce essentielle de leur nature chez tous ceux de son « genre », chez tous ses semblables (Ravaisson, op. cit., p. 187).
寛仁(la générosité)とは、すなわち高貴さである。ラヴェッソンは、デカルトを念頭に置きつつ、寛仁な人(le généreux)とは、己の内に自由意志の意識を持っている人のことであり、この自由意志が、その人をして、己を取り巻く諸事象・諸事物とは独立に、己自身の主人としている人のことだと言う。そして、この自由意志について、こう付け加えている。その意志とは、その人自身よりも高いところからやってくるものであり、その高貴なる意志が、その人をして、その人固有の個別性・個体性―それだけでは、エゴイズムでしかない―から解放し、パスカルが言っているように、「普遍」(« le général »)へと至らせる。この自由意志を、寛仁な人は、己の内に感じるが、その同じ意志を、同じ「類」(« genre »)の人たちすべて、つまり同胞すべてにおいて、その本性の本質的な一部として認める。
寛仁なる人とは、己のうちにあって己を超えた高きものである自由意志が己を越えて遍く行き渡るように生きる人のことである。そのように生きることがその人を高貴にしている。つまり、高貴さは、生れによって与えられる特権ではなく、寛仁なる人として生きることそのことなのである。