内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

哲学的遺書を読む(5)― ラヴェッソン篇(5)光の系譜学

2015-12-16 04:26:56 | 哲学

 今日から、ラヴェッソンの『哲学的遺書』の最後の六頁ほどを、何回かに分けて、読んでいく。段落ごとに引用し、それに意訳とコメントとを加えていくという形式を取る。

  Inspirée de cette morale, l’âme humaine prend la conscience qu’elle n’est pas née pour périr après avoir vécu de courts instants comme en un point du monde, mais qu’elle vient de l’infini, qu’elle n’est pas, suivant un mot de Descartes, comme ces petits vases que remplissent trois gouttes d’eau, mais que rien ne lui suffit que l’infini. Rayon de la divinité, rien ne peut être sa destinée que de retourner à elle et de s’unir pour toujours à son immortalité (Félix Ravaisson, Testament philosophique, op. cit., p. 114-115).

 文頭の「この道徳」(« cette morale »)とは、寛仁の心から自ずと生まれる愛に基づいた道徳である。この引用箇所の直前に、『遺書』の第二版(1933年)では、その編者によって、ラヴェッソンの草稿が挿入されている。その草稿によれば、この道徳は、ある特定の宗教的教説に還元されるものではなく、逆に、偉大な諸宗教がこの道徳にこそ還元される。その源泉は、「普遍的な始原の啓示」(« la révélation primitive universelle »)であり、それは「心の啓示」( « [la révélation] du coeur »)にほかならない。その啓示こそが、この世にやってきたあらゆる人を照らす光となるが、その光は、とりわけ偉大なる魂を照らす。
 この道徳の息吹に動かされている人間の魂は、この世界のある一点にわずかな時間だけ生きた後に滅びるために自分が生まれて来たのではないことを自覚する。この第一文の前半は、明らかにパスカルの『パンセ』を念頭において書かれおり、後半は、見ての通り、デカルトに依拠している。人間の魂は、無限からやってきたのであり、デカルトの言葉を借りれば、三滴の水が満たす小さな花瓶のようなものではなく、無限のみがそれを満たす。神性から発する光である魂にとって、その神性へと回帰し、その不死性へと永遠に合一することがその運命にほかならない。この最後の部分が新プラトン主義の流れを汲むものであることは言うまでもなかろう。
 ラヴェッソンが『遺書』で描き出そうとしているのは、「普遍的な始原の啓示」から溢れ出る光に照らされた偉大なる魂の系譜である。そのような偉大なる魂は、古代においては、様々な神話の中の英雄たちとして形象化され、古代哲学、キリスト教、近代哲学においては、卓越せる個人において受肉されて、樹状的に広がる系譜をなす。偉大なる魂たちによって担われているこの「寛仁」( « générosité ») の系譜は、ラヴェッソンが生きる時代にまで、凅れることなき川の流れのごとくに続く。生涯の最後の二年間に書かれた『遺書』は、ラヴェッソンにとって、自らをその系譜に書き込み、その系譜を未来へと託す哲学的実践にほかならない。