内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的遺書を読む(11)― ラヴェッソン篇(11)魂の自己認識から魂同士の合一へ

2015-12-22 00:00:00 | 哲学

 今日の記事で引用する箇所は、『遺書』第二版の編者による本文中へのラヴェッソンの草稿からの長い挿入部分である。原文では、その挿入部分は、[ ]に括られて、『遺書』第一版の本文と区別されているが、ここでは、それを外して、原文だけを示し、その後におよその拙訳を付す。

 Au point le plus élevé de l’architectonique vitale, chez l’homme, l’esprit plane pour ainsi dire au-dessus de l’organisme ; il se reconnaît dans les objets de sa pensée ; il se reconnaît surtout en lui-même, il voit en lui, dans une intime conscience, la pensée en face de la pensée, telle déjà qu’elle sera, plus haut encore, en Dieu, où suivant la formule hardie d’Aristote, la pensée est pensée de pensée, une flamme pure qui s’éclaire de sa propre lumière (p. 118).

 精神は、人間におけるその生の成り立ちの最も高次な点において、いわは身体器官の上を滑翔する。精神は、己の思考の諸対象のうちに自己を認識する。とりわけ、己自身において自己を認識する。自らのうちにおいて、内奥の意識において、思想と向き合う思考を見る。それは神において、さらなる高みにおいて、すでにそうであろう。神においては、アリストテレスの大胆な表現を用いれば、思考とは思考の思考である。それは、自らの光によって自らを照らす純粋な炎の如きものである。

 Peut-être cette union d’une âme avec elle-même est-elle un prélude d’un autre état où des âmes différentes pénétrant dans l’intimité l’une de l’autre, comme on voit déjà ici-bas en maint exemple, réaliseront ainsi l’idéal de l’union conjugale parfaite ? Au moins doit-on y voir une ébauche d’une union plus parfaite encore des âmes avec la divinité, leur origine et leur centre commun ; union prédite dans l’Evangile comme devant consommer un jour l’identification du Sauveur divin et de ses fidèles (P. 118-119).

 おそらく、この魂の己自身との合一は、別のもう一つの状態の先触れであり、その別の状態においては、親密さの中で互いに浸透しあう魂同士が、すでに数多くの実例がこの世でも見られるように、 完全な婚姻的結合という理想を実現するのでもあろうか。少なくとも、私たちは、そこに魂らと神性との、つまり魂の起源であり、その共通の中心であるものとの、より完全な合一の素描を見なければならないだろう。その合一とは、聖書の中で、ある日救い主と忠実なる信徒たちとの同一化を完遂するべきものとして予言されている合一である。