内的自己対話-川の畔のささめごと

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哲学的遺書を読む(6)― ラヴェッソン篇(6)現代こそ「狭隘な神学」の時代ではないだろうか

2015-12-17 04:13:53 | 哲学

 昨日の続きを読もう。
 第一行目の動詞 « réduire » の前に置かれた人称代名詞 « la » は、前段落の主題である « l’âme humaine » (「人間の魂」)を指している。 以下の段落は、「正義の名の下に」、人間の魂をより惨めな定めへと貶めようとする「狭隘な神学」(« une théologie étroite »)とキリスト教の「慈悲の精神」(« l’esprit de miséricorde »)とは相容れないことを示す。

 On a prétendu, au nom de la justice, la réduire à une plus humble destinée.
 Tandis que le Sauveur dans l’Evengile dit : « J’ai pitié de la foule » ; tandis que l’Evengile dit encore : « Pardonnez jusqu’à sept fois, jusqu’à septante fois par jour » ; tandis que dans un office des morts de l’Eglise catholique on dit à Dieu : « Toi dont le propre est d’avoir pitié toujours et de pardonner », une théologie étroite veut qu’il désespère de la plupart des hommes et les condamne, comme incapables d’amendement, à périr pour toujours. Au nom de la justice, une théologie étrangère à l’esprit de miséricorde qui est celui même du Christianisme, abusant du nom d’éternité qui ne signifie souvent qu’une longue durée, condamne à des maux sans fin les pécheurs morts sans repentir, c’est-à-dire l’humanité presque entière. Comment comprendre alors ce que deviendrait la félicité d’un Dieu qui entendrait pendant l’éternité tant de voix gémissantes ? (p. 115-116)

 新約聖書の中でも、カトリックのミサにおいても、衆生への慈悲と許しは繰り返し唱えられているのに、「狭隘な神学」は、「正義の名において」という、反駁を許さぬ錦の御旗を振りかざし、悔い改めることなく死んだ罪人たちに、つまり人類のほとんどすべてに対して、終わりなき災いの刑を宣告する。しかし、このような狭隘さは、その神学が、永遠をそれとして理解できず、それを単なる長い持続と取り違えていることを意味している。このような神学に囚われているかぎり、神は、かくも多くの呻き声をいつまでも聞き続けなければならないことになり、そのような神の浄福がどのようなものになるのか、まったく理解のしようもない。
 以下は、上掲の引用箇所を読んだ後の、私の独り言である。
 このような「狭隘な神学」(ここでいう「神学」とは、学問としてのそれではなく、キリスト教圏内のそれに限られるものでもなく、「神」の名を振りかざし、その名において「正義」を絶対化し、殺人も含め己の所業を正当化する「暴力的な」言説のすべてを指す)に対して、同じく「正義の名において」攻撃を仕掛け、力によってそれを滅ぼそうとすることは、たとえそれが「正しく」とも、寛仁およびそこから湧き出る愛の道徳にまったく反しており、それらから導き出されることがけっしてない帰結である。
 中世を「暗黒の時代」とする蒙昧な史観がようやく払拭されようとしている現代は、皮肉なことに、「狭隘な神学」同士が闘争する、中世よりもさらに「暗黒な」時代になってしまってはいないだろうか。