内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(2)―「病気の苦痛を上回る精神的喜び」

2016-02-06 07:01:17 | 読游摘録

 昨日に続いてメナール版パスカル全集第四巻に収録されている『病の善用を神に求める祈り』のメナール教授による解説の摘録を続ける。白水社の日本語版は、その解説の「骨子のみを略述する」とされているが、書誌的に詳細な検討部分を除けば、本質的に重要な諸点については、その忠実な訳になっている。
 以下、断りのない限り、仏語版・日本語版それぞれからの抜粋であり、各引用末尾の数字は仏日各版の頁数を示す。

Le matériel n’est jamais que la « figure » du spirituel (991).

物質的なものは、精神的なものの「表徴」にすぎない(455)。

La maladie du corps figure la maladie de l’âme. C’est la seconde qu’il importe de guérir, et la première ne donne lieu à « bon usage » que dans la mesure où elle aide à cette guérison essentielle (ibid.).

体の病気は、心の病気の表徴なのである。治さねばならないのは心の病気のほうで、体の病気は、この本質的な治癒に役立つ限りにおいて「善用」すればよい(455 一部改変)。

Si la maladie réalise matériellement la séparation du monde, elle ne l’accomplit pas sur le plan spirituel. Il y faut une grâce spéciale, celle de conversion (ibid.).

病気がこの世からの離脱を物質的に実現しても、精神的な面で離脱を達成することにはならない。そのためには、特別な恩寵である回心の恩寵が必要である(455-456 一部改変)。

Une grâce que la maladie renferme implicitement, comme effet de la miséricorde de Dieu, qui appelle à lui le pécheur avant que, la mort survenant, il ne soit trop tard. Mais la grâce reste malgré tout distincte de la maladie. Elle se manifeste par une attitude d’amour, et l’amour s’accompagne de ces « consolations » sensibles, de cette joie spirituelle plus forte que la douleur du mal. Car toute peine terrestre est surmontée en Dieu par une sorte de joie céleste. Au terme, dans l’abandon total, se réalise, entre l’homme et Dieu, l’union mystique (ibid.).

神の憐れみの結果として病気のなかに含蓄的に含まれている恩寵、死がふいにやって来て手遅れにならないうちに罪人を神の許へと呼ぶところの恩寵である。といっても、恩寵は病気と区別される。恩寵は、愛の表明として現れるのであって、愛は、感じることのできる「慰め」や、病気の苦痛を上回る精神的喜びを伴うのである。というのも、地上のあらゆる苦しみは、一種の天上の喜びによって神において乗り越えられるからである。その行きつくところ、完全な神への委託において、人間と神とのあいだの神秘的結合が実現することになる(456)。