内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

Penser 《 au milieu 》(「只中で」考える) ― ジルベール・シモンドンを読む(5)

2016-02-20 18:31:41 | 哲学

 « Penser au milieu » という表現の二つ目の意味、「『只中で』考える」( « penser “au milieu” »)は、個体とその環境との差異化をどこで考えるかという問題に関わる。
 個体の誕生とともに、その個体と不可分・不可同な仕方で作用するその環境がそれとして差異化される。この差異化を指し示すのに、シモンドンは、物理学で「位相差」を意味する « déphasage » という言葉を使う。この個体と環境との不可分離的差異化(私自身はこれを「離接」と呼びたい)は、個体の生成がまさに生起するその「場所」(« milieu »)において起る。つまり、その生成の場所は、その生成以前の場所に先在的(あるいは潜在的)に含まれていた諸要素に還元することはもやはできない。言い換えれば、個体の真の生成は、その生成の環境となる以前の場所に準備されていたプログラムの実行の結果ではない。例えば、ある有機体の最初の生誕は、それ以前からそこにあった無機的な物理化学的過程に還元することはできない。
 個体化とともにその環境もそれとして機能し始める個体化過程は、個体をその構成諸要素に還元することによっては理解できないことはもちろんだが、ある環境の自己形成機制の発動として理解することもできない。〈今〉〈ここに〉に誕生しつつある個体を、その生誕地にそれ以前からある要素や機制に還元せずに、全体をいわば生成の相の下に見ること、そして、考える我もまた生成過程にあるものとして、その過程に相応しい概念を創出しつつ、生成過程の内在的理解を実行すること、これが「『只中で』考える」ということである。
 この「『只中で』考える」という思考を人文科学の諸分野に適用するとどうなるか。それは、あたらしい「公理系」によって、つまり、新しい概念と新しい原理とによってそれら諸分野を統合することになるだろう。これらの新しい概念と原理とは、特に、心理学と社会学とを一種の「社会心理学」(« psychosociologie »)として統合することを可能にするだろう。
 ここで言われる「社会心理学」は、しかしながら、今日私たちが既存の学問分野の一つとして認識しているそれを指すのではない。社会集団を考察するために心理学の方法を適用する、あるいは、逆に、人間心理を考察するために社会学を援用する、といういうような、折衷的な方法論を指すのでもない。それは、むしろ、人間についての総合科学に与えられた仮称と見なされるべきだろう。個体としての人間とその人間がそこにおいて行動する環境とを全体として一つの生成過程として動的にかつ総合的に考察する総合学をシモンドンは構想している(以前にも仄めかしたことだが、この総合学に「百学連環」という西周による美称を与えたいと私は思っている)。
 技術を「『只中で』考える」とどうなるか。それは技術を自然と文化との媒介として三者を総合的に把握する態度へと私たちを導くであろう。このような総合的把握は、自然を文化に繋ぐものとして技術を統合する解放的な全体システムとして具体化されることになるだろう。
 「『只中で』考える」思考を徹底させることは、ここまで見てきたように、自然と文化と技術との関係を総合的に見直すという現代的な課題への取り組みに外ならないが、まさにその取り組みを通じて、「形相」「質料」「実体」等の西洋哲学の思考の枠組みを決めてきた基礎概念をその歴史の「只中で」根本から問い直すという哲学的批判精神を発揮することに他ならない。