明治三十四年(1901)九月二日に出版された中江兆民の『一年有半』は、当時としては驚異的なベストセラーになった。初版刊行以後一年にして二十三版、二十余万部発行されたという。
松永昌三『中江兆民評伝(下)』(岩波現代文庫、2015年)によれば、「兆民の声明と本書の内容もさることながら、その兆民が、ガンという不治の病に倒れ、迫り来る死との時間的格闘の中で執筆されたという異常性が、読書界に衝撃と興奮を走らせ、爆発的な売れ行きとなったと思われる。書評は、同情も加わって、おおむね好評であった。」(342頁)
ところが、『一年有半』に対して苛烈とも見える「罵倒」を投げつけた文学者が一人いた。兆民のちょうど二十才年下の正岡子規である。
子規が『一年有半』について言及しているのは、以下の三つの場所と時期においてである。
まず、『仰臥漫録』の明治三十四年十月十五日、十七日、十八日、二十五日の日記。
最初の記事の時点では、子規はまだ同書を読んでいないにもかかわらず、新聞で読んだ同書の評判から内容を推測して、感想と批判を記している。「居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけ我等に劣り可申候。理が分ればあきらめつき可申、美が分れば楽み出来可申候。杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれども、どこかに一点の理がひそみ居候」などと述べている。十七日の記事で、虚子が贈ってくれた『一年有半』がその日子規の手元に届いたことがわかる。翌日の記事には、同書を「見た」とある。そして二十五日の記事には、「『一年有半』は浅薄なことを書き並べたり、死に瀕したる人の著なればとて新聞にてほめちぎりしため忽ち際物として流行し六版七版に及ぶ」と、同書の内容に対してばかりでなく、それをもてはやしたジャーナリズムや歓迎した読書界についてまで否定的な見解を記している。
これらの言及は、しかし、日記内の述懐であり、子規の生前には公表されていない。
ところが、子規は、それからひと月ほど経った同年十一月下旬、新聞『日本』紙上に、「命のあまり」と題して、二十日、二十三日、三十日の三回に渡って『一年有半』論を展開する。第三回目は、最初の二回の記事に対して読者から新聞社に寄せられた批判に答える形になっているので『一年有半』に対する直接的な批判ではないが、これら三回の記事全部を合わせると、三千六百字ほどになる。講談社『子規全集』第十二巻(1975年)に収録されている。
この一連の記事とそれをめぐる紙上での論戦について、松永昌三は上掲の『評伝』の中で次のように述べている。
きっかけは、『一年有半』の評判を羨んだ正岡子規が、『一年有半』をもてはやす新聞評を非難し、『一年有半』は奇行の人兆民の著書にしては、平凡浅薄、要するに死にかかった文士が、病中のうさ晴らしに書いたものにすぎず、たんなる同情心から、これを過大に評価するのは間違いであると、水をぶっかけたことにある。結核で同じく長年の病床生活を続けていた子規にとって、病者の心情を真に理解できぬ無責任な批評が我慢できなかったのかも知れぬ。(364-365頁)
確かに、子規自身記事の中で述べているように、『一年有半』の中身についてはそれを「平凡浅薄」と「罵倒」しているだけであり、子規の舌鋒の鉾先はむしろ兆民の同書執筆動機を誤解して的はずれな褒めそやし方をするジャーナリズムや読書界に向けられている。そして、兆民自身に対しては、「居士は学問があるだけに、理屈の上から死に対してあきらめをつけることが出来た。今少し生きて居られるなら「あきらめ」以上の域に達せられることが出来るであろう」と第一回目の記事が結ばれていることがからもわかるように、兆民自身が『一年有半』の「平凡浅薄」さを超えて、一個の思想家としてそれに相応しい境位に残された時間の中で達することを期待してもいるのである。しかし、兆民には、この子規の記事のことは耳に入らなかったであろう。三回目の記事の十三日後に、兆民は息を引き取っている。
この「「あきらめ」以上の域」に日々書くことで到達しようとしていたのは、子規その人自身でもあった。子規に残されていた時間も、『一年有半』についての記事を書いて以後、十ヶ月足らずしか残されていなかった。
子規の書いた文章の中に『一年有半』についての言及が三度目に見られるのは、子規の死の年、明治三十五年(1902)に執筆された『病床六尺』の中の七月二十六日の記事の中でのことである。兆民没後すでに七ヶ月が経過している。この子規の記事については明日書く。