内的自己対話-川の畔のささめごと

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パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(8)― 柔軟で控え目な論理的思考の進展

2016-02-12 03:35:12 | 読游摘録

 昨日の記事では、『祈り』は、精神の秩序にしたがって原理と証明とによって獲得された論証ではなく、心情の秩序から生まれた「詩」であると主張するメナール教授の論述を追った。
 その直後に、教授は、「しかしながら、それとして感じられない(思考)の運動、柔軟な進展が実現されており、そのいくつかの段階は、控え目ではあるが、はっきりと記されている」(« Un mouvement insensible s’accomplit pourtant, une progression souple dont certaines étapes sont discrètement, mais nettement marquées », Œuvres complètes, op. cit., p. 994)と前置きした上で、『祈り』の本文に即して、心情の秩序から生まれた「詩」の中に織り込まれている精神の秩序の糸筋を精緻な分析によって浮き上がらせていく。
 今日の記事では、その分析の最初の段落をそのまま掲げる。その内容からして、『祈り』の本文の当該箇所をその都度引用することが望ましいのだが、そうすると記事があまりにも長くなりすぎるので、『祈り』からの引用は、これを一切省略する。

Le tournant le plus net, encore que ménagé avec douceur, est celui qui se dessine au début du § IX. Auparavant, la prière s’adressait à Dieu le Père, Dieu éternel, Dieu providence, principe et fin de toutes choses(§ VI), Maîtree du cœur des hommes et objet suprême vers lequel tendent toutes leurs volontés (§ IV). Ensuite, c’est la personne du Christ qui est invoquée, Dieu venu au monde pour établir son Royaume au-dedans des âmes, Dieu fait homme pour endurer tous les maux mérités par les péchés des hommes, Dieu dont la souffrance procure le salut à l’homme qui souffre et à l’homme pécheur (ibid.)

最もはっきりとした議論の転回点は、それがなお控え目な仕方でなされているとはいえ、第九段落の初めに形を取って現われる。それ以前は、祈りは、父なる神、永遠なる神、摂理たる神、万物の原理と目的(第六段落)、人間たちの心の師であり人間たちのすべての意思がそこへと向かう至高なる対象(第四段落)であった。それに続いて、キリストの位格が加護の祈りの対象となる。つまり、人々の魂の中に自らの王国を建設するためにこの世界にやって来た神、人間たちの罪ゆえにもたらされたすべての悪を耐え忍ぶために人となられた神、苦しむ人や罪人に自らの苦しみによって救いをもたらす神が祈りの対象となる(白水社版458頁に依拠したが、この部分は原文の逐語的な訳ではなく、省略や簡略化があるので、それらを補い、かつ訳文を数箇所変更した)。

Sans doute, dans ce second temps, Dieu le Père intervient-il de nouveau (§ XI), mais c’est comme auteur de la mission de son Fils. Inversement, dans le premier temps, le Christ avait été mentionné comme « image » et « caractère » de la substance du Père (§ IV). Ainsi s’instaure entre le Père et le Fils une sorte de relation harmonique. Il arrive aussi qu’une certaine indécision règne quant au destinataire de la Prière, le Père et le Fils se superposant l’un à l’autre. L’Esprit, dispensateur des grâces et des consolations, est aussi présent, mais son action n’est signalée le plus souvent que d’une manière implicite. Il n’est véritablement nommé qu’une fois le Fils apparu (§§ IX, X, XI, XV). Les trois personnes de la Trinité sont simultanément invoquées dans la doxologie finale. Poème de la grâce, de l’amour, de la consolation, la Prière devait naturellement faire appel au Dieu trinitaire (ibid.).

なるほどこの後半においても父なる神はあらためて登場しはするが、それは我が一人子の(この世への)派遣者としてである。ところが、前半においては、キリストは、父なる神の「姿」、その実体の「刻印」として言及されていた(ここで « caractère » を「刻印」と訳したのは、メナール版全集の『祈り』第四段落末尾の注の最後に記された « Le mot « caractère » est à prendre au sens concret de « marque ». » という指摘に従った。この一文はなぜか白水社版では省略されている)。このように、父なる神と子なる神のあいだには、一種の調和ある関係が成り立っている。しかしまた、父と子とがお互いに重なり合っているので、『祈り』が捧げられているのはどちらなのかはっきりしないこともある。恩寵と慰めの分配者である聖霊もまた姿を現わすが、その働きは、たいていは、はっきりしない仕方でしか示されていない。聖霊がそれとして確かに名指されるのは、子なる神が登場したときに限られる(第九、一〇、十一、十五段落)。三位一体の三つの位格は、最後の栄唱では同時に祈りの対象となっている。恩寵と、愛と、慰めの詩である『祈り』は、当然のことながら、三位一体の神へと呼びかけていたのである(白水社版458-459頁に依拠しつつ、数箇所で訳文を変更した)。