内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(10)― 対立するものの間の緊張の場である魂

2016-02-14 05:14:50 | 読游摘録

 昨日の記事で白水社版の訳の誤りを訂正したが、それは単に文法的な誤りの訂正に過ぎなかった。あるいは、「取ってかわられる」と受動態にすべきところをうっかり「取ってかわる」と能動態にしてしまい、それが見逃されただけなのかも知れない。
 ところが、その拙改訳について、中世フランス語をご専門とされる先生から先ほど貴重なご教示を頂戴したので、それに従って拙訳を訂正する。
 問題の文には、« action de grâces » とあるが、この表現には「神への感謝」という意味がある。確かに、『祈り』の第六段落の末尾は、« Je vous rends donc grâces, mon Dieu, des bons mouvements que vous me donnez, et de celui même que vous me donnez de vous en rendre grâces. » (Œuvres complètes, op. cit., p. 1004 ;「私は、あなたが私になさってくださっているよきはからいのかずかずと、そうしたはからいをあなたに感謝するようにあなたが私になさってくださっているはからいとを、共にあなたに感謝いたします」白水社『【メナール版】パスカル全集』第二巻、432頁)と感謝の言葉になっている。この文の末尾に付けられた注の中で、メナール教授は、« En effet, la prière elle-même est un don de la grâce. D'une façon générale, tout commencement de bonne volonté est l'effet d'une grâce que couronne une grâce plus puissante d'acte. » (「実際、祈りそのものが恩寵の賜物である。一般的に、よき意思のはじまりは恩寵の結果であり、より強力な働きをもった恩寵がそれを仕上げる」)と指摘し、Écrits sur la Grâce の参照箇所を挙げている。
 以上から、ここは「恩寵の働きの祈り」(そもそもこの日本語は曖昧である。「恩寵の働きを求める祈り」とも「恩寵の働きによる祈り」とも取りうる)ではなく、パスカルはすでに恩寵による神のよきはからいが自分のうちで働いていることを自覚しているのだから、そのことへの感謝であり、かつそのように感謝できることそのことが恩寵の働きだと考えられていると、言い換えれば、第六段落の末尾で「要求の祈り」が「感謝の祈り」に取ってかわられていると読むべきだと考えられる。
 したがって、訳文は、「要求の祈りに感謝の祈りが徐々に取ってかわる」と訂正する。
 自分一人では間違って読んだままに終わるところを、ご教示によって蒙を啓いていただいた。己の無知を恥じるとともに、ご教示の労をとってくださったことに心より感謝申し上げます。

 さて、昨日までの九日間、パスカルの『病の善用を神に求める祈り』のメナール教授による解説をずっと読んできたが、それも今日の記事が最後になる。

Ce mouvement d'humidité se prolonge au début de l’invocation au Christ, mais avec le sentiment que, grâce à l’incarnation, le Royaume de Dieu est au-dedans de l’âme (§ IX). Par le lien que créent les souffrances communes à l’homme et au Christ, un commencement d’union se réalise (§ X). Mais, pour que ce lient se maintiennent, il faut que les consolations dispensées par la grâce restent associées à la « tristesse » : non pas celle que suscitent les maux du corps, puisqu’ils sont le principe de l’union, mais celle, toute sainte, que fait naître le sentiment du péché, celle-là même qui a été la tristesse du Christ (§§ XI-XIII). Alors peut s’amorcer le mouvement final, dans lequel est atteint l’état d’abandon, de soumission totale à la volonté de Dieu, qui préfigure la condition céleste (§§ XIII-XV) (Œuvres complètes, op. cit., p. 995).

このへり下る心の動きは、キリストへの祈願のはじめまで続くが、受肉のおかげで神の王国が心の中にあるという気持を伴っている(第九段落)。人間とキリストに共通の苦しみがつくり上げる絆によって、神との合一がはじまる(第十段落)。だが、この絆が保たれるには、恩寵によって与えられた慰めが「悲しみ」と結びついたままでいなければならない。その悲しみは、体の苦しみが生み出す悲しみではない。その苦しみは合一の原理であるのだから。そうではなく、罪の自覚が引き起こすまったく聖なる悲しみであり、キリストの悲しみであったまさにその悲しみである(第十一~十三段落)。そこで最後の動きがはじまりうる。その動きの中で、委ねの状態、神意へのまったき服従の状態に到り着くのであり、この状態が天上の境位を予示している(第十三~十五段落)(白水社版459-460頁に依拠しつつ、数箇所改変した)。 

Au début marquant la distance entre l’homme et Dieu correspond donc un terme où cette distance est abolie. Le cheminement effectué a suivi d’abord les voies de l'ascèse et de la pénitence pour s’achever par ceux de l’abandon et de la mystique. Mais la progression n’a pas été linéaire, d’autant que l’âme est constamment le siège d’une tension entre les contraires : la lutte entre le monde et Diue, entre le péché et la grâce, est toujours à reprendre. Aussi le texte comporte-t-il tout un aspect dramatique. Au-delà du mouvement accompli transparaît la nécessité d’un éternel recommencement (ibid.).

人間と神とのあいだの隔たりを示していた初めに、それゆえ、この隔たりが廃棄された終わりが対応する。歩まれた道のりは、まず禁欲と悔悛の途を辿り、委ねと神秘的信仰の歩みによって完遂される。しかし、その道行きは直線的ではなかった。魂は、つねに、対立するものの間の緊張の場だからである。この世と神、罪と恩寵の間の争いは、いつでも再開されうる。したがって、テキストは劇的な様相を十全に含んでいる。動きの完了の向こうには、永遠の再開の必然性が透けて見えている(白水社版460頁に依拠しつつ、数箇所改変した)。

On voit que la Prière, quoique lucidement pensée et savamment construite, échappe, sans les contredire, aux lois de la pure rationalité. C’est bien dans l’ordre du cœur qu’elle se situe (ibid.).

『祈り』は、明晰に考えられ、巧みに構成されてはいるが、純粋な合理性の諸法則に対しては、それに矛盾することなく、その手をすり抜けている。まさに心情の秩序の中に『祈り』は位置づけられているのである(白水社版460頁に依拠しつつ、一部改変した)。

 『祈り』の原文は、メナール版全集で十五頁(白水社版邦訳で十二頁)ほどの小品であるから、本文に目を通すというだけのことなら、一時間もあれば足りる。ところが、私は、これまで、いざ真剣に読もうとすると、最初の段落から躓きを繰り返し、なかなか前進できずにいた。一応は読み通しても、何かどうにもなじめないものを感じてしまい、溜息をつくということを繰り返してきた(罪深いお前の精神の低劣さからして、それは当然の帰結だ、と言われればそれまでだが)。
 今回は、メナール教授の精緻な解説を頼りとしながら、再読を試みた。『祈り』の心情の秩序を内的に理解することはもちろんできなかった(多分一生できないだろう)が、ところどころで『祈り』の言葉に私の心が感応するということがなかったわけではない。
 今日の記事をもって「パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む」の連載は終えるが、明日からまた、一日一段落ずつ、『祈り』を読み直そうと思う。