「個体化」(« individuation »)とはどういうことか。ILFIの「序論」(« Introduction »)を読むと、上記の問いは、次のようなより限定された問いへと方向づけられていることがわかる。
なぜ、それとして成立した「個体」ではなく、「個体化」そのものが問題にされなくてはならないのか。
この問いへの答えはおよそ次のようになる。
生成の出発点にこれ以上分割不可能でつねに自己同一的な実体を想定する実体論的原子論も、すべての存在は質料と形相との結合から形成されるとする質料形相論も、個体化原理そのものが生成する過程を捉えることができない。なぜなら、前者の場合、個体化後、つまりすでに原子として完了している個体化の後にしか個体化の原理を事後的に追認することしかできず、後者の場合、個体化前、つまり個体化が始まる前の質料と形相しかない段階ですでに個体化の原理が想定されなくてはならないからである。どちらの場合も、個体化作用そのものがグレーゾーンに隠れてしまう。言い換えれば、個体化は個体化以外に何かによって説明されなくてはならないものでしかない。
どうしてそういうことになるのか。
実体論的原子論と質料形相論のいずれの場合も、個体化作用過程そのものが個体化原理をもたらすという考えは排除されているからである。言い換えれば、両者の思考の枠組みにとどまるかぎり、個体化原理そのものの「個体発生」(« ontogénèse » )はそもそも考えようがない。あるいは、原理が個体として発生するということは定義上あり得ないとしか考えられないと言ってもよい。
ところが、シモンドンにおいては、個体発生とは存在の生成そのものに外ならないと考えられている。
Le mot d’ontogénèse prend tout son sens si, au lieu de lui accorder le sens, restreint et dérivé, de genèse de l’individu (par opposition à une genèse plus vaste, par exemple elle de l’espèce), on lui fait désigner le caractère de devenir de l’être, ce par quoi l’être devient en tant qu’il est, comme être. L’opposition de l’être et du devenir peut n’être valide qu’à l’intérieur d’une certaine doctrine supposant que le modèle même de l’être est la substance (ILFI, p. 25).