内的自己対話-川の畔のささめごと

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パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(7)― 精神の秩序と心情の秩序について

2016-02-11 05:33:49 | 読游摘録

 メナール版の解説の最後に来るのが『祈り』の構成の問題である。『祈り』の本文を読む準備作業の最終段階として、この問題についてのメナール教授の精緻な分析を見ていこう。
 『祈り』は、その文章の完成度の高さにもかかわらず、その構成の論理の把握は必ずしも容易ではないと教授は言う。「フランソワ・ド・サルが見本を示しているような、体系的で合理的に編成された黙想に見られるような構成ではない」(白水社『【メナール版】パスカル全集』第二巻、458頁)。それでは、そこに見られるのは、「思想と感情の自然な連なりに還元されるような自由な心情の吐露」(同頁 ; « une effusion libre, dont le déroulement se réduirait à un enchaînement spontané d’idées et de sentiments », Œuvres complètes, vol. IV, op. cit., p. 993)なのであろうか。
 この問いに対して、教授は、その「答えは、パスカルが精神の秩序と心情の秩序を区別している重要な断章のなかにある」と答える(同頁)。その断章とは、ラフュマ版298番、ブランシュヴィック番283番である。まず、その原文を Sellier 版の断章329番に拠って示そう(ラフュマ版に基づいている Seuil 社の « Points Essais » 中の Pensées には、明らかな誤植があるので、ここでは同版を用いなかった)。

 L’ordre — Contre l’objection que l’Écriture n’a pas d’ordre.
 Le cœur a son ordre, l’esprit a le sien, qui est par principe et démonstration. Le cœur en a un autre. On ne prouve pas qu’on doit être aimé en exposant d’ordre les causes de l’amour, cela serait ridicule.

 Jésus-Christ, saint Paul ont l’ordre de la charité, non de l’esprit, car ils voulaient échauffer, non instruire.
 Saint Augustin de même. Cet ordre consiste principalement à la digression sur chaque point qui a rapport à la fin, pour la montrer toujours.

 精神の秩序は、「原理と証明とによって」(« par principe et démonstration »)実行されるが、心情の秩序は、「目的を常に示すために、それと関係のある個個の点について枝葉の議論を行うことに主として存するのである」(前田陽一訳)。前田訳では「枝葉の議論」と訳されている原文の « digression » は、塩川訳では「脱線」と訳されている。後者の方がこの語の通常の字義には忠実な訳だが、どちらの訳によっても、ここでの « digression » の意味を捉えることは、私にはそんなに容易なことには思われない。ところが、この語について、手元にあるどの版にも何の注もない。
 メナール版全集には、メナール教授自身の論文 « La Digression dans les Pensées de Pascal » dans Gestaltung-Umgestaltung [Mélanges Margot Kruse]、Tübingen, 1990, p. 223-228 が当該箇所の注に参考文献として挙げてある(Sellier 版でも同様)のだが、白水社版にこの注は採録されていない。
 というわけで、信頼の置ける注釈に依拠できないままに、この語のこの文脈での意味について、差し当たりの自分なりの理解をここに記しておく。
 まず何に対して「脱線」なのか。あるいは、どの観点から見て「枝葉の議論」なのか。それは、この断章の文脈からして、精神の秩序から見て、言い換えれば、原理を出発点とした証明の順序の観点から見て、ということになるだろう。論理的観点からは論証を構成する一連の議論の一齣に過ぎない論点が、最終目的である神との合一との関係から見ればその目的に(直接)関係がある要素であるとき、その要素が現われる度毎にその最終目的をそこに示すことは、論理的観点からすれば「脱線」あるいは「枝葉の議論」としか見えない。しかし、まさにそうであるからこそ、 « digression » によって、そこにもう一つの秩序があることが、論証手続きとは違った形式と秩序において示される。
 解説の続きを読んでみよう。

Faisant très peu d’usage du raisonnement, la Prière relève essentiellement de l’ordre du cœur. On pourrait dire que la digression y est constante, autrement dit que la marche de l’argumentation y est sans cesse interrompue par des pauses où l’émotion et le lyrisme se donnent libre cours. Par le jeu de la répétition, de l’incantation, par le rappel constant d’une « fin » qui est l’union à Dieu, le poème peut naître (op. cit., p. 994).

推論をほとんど用いていない『祈り』は、主として心情の秩序に属している。そこでは絶えず議論の筋道から逸れていると言えよう。換言すれば、情動と抒情とが自ずと流れ出るいくつもの中断によって、議論の歩みが絶えず遮られている。反復して呪文を唱えることによって、神との合一を絶えず喚起することによって、詩が誕生する場合がある(白水社版に依拠したが、かなり改変した)。

 そうであるならば、心情の秩序から生まれる詩は、論理的推論とは相容れない言語表現なのだろうか。