昨日の記事で予告した通り、今日からジルベール・シモンドンについての長期連載を始める。しかし、予め立てた研究プランのようなものがあるわけではない。
眼前の机上には、現在入手できるシモンドンの主要著作のすべてとシモンドン語彙集 Le vocabulaire de Simondon(Jean-Yves Château, Ellipse, 2008)と Jean-Hugues Barthélémy による概説書 Simondon(Les Belles Lettres, coll. « Figures du savoir », 2014)とが並べられている。この二冊をいわば旅行ガイドブックのように使って、途中で遭難する危険も多分にある大海に乗り出す長い航海のようなこの読書の旅の準備にとりかかるところからこの連載を始めることにしよう。
ジルベール・シモンドン(1924-1989)は、1958年に国家博士論文の主論文 L’Individuation à la lumière des notions de forme et d’information と副論文 Du mode d’existence des objets techniques との公開審査を同じ日に受けた。前者の指導教授は、ジャン・イポリット、後者の方は、ジョルジュ・カンギレム。
副論文は、その年の内に Aubier 社から出版されている。このことは、弱冠34歳の若き俊秀がその技術の哲学によって早くも同時代の哲学者たちから高く評価され、当時の識者たちの注目を広く集めたことを意味している。
ところが、主論文の方は、その浩瀚さと構成の複雑さと時代に先駆けた独創性が災いしたのか、その前半だけが1964年に L’Individu et sa genèse physico-biologique というタイトルで出版され、その後半が L’ Individuation psychique et collective というタイトルで出版されたのは、シモンドンが亡くなった1989年のことに過ぎない。しかも、副論文に対する評価に比べれば、主論文の個体化論の方はシモンドンの生前に十分に理解されかつ正当に評価されたとはとても言いがたい。
ただし、前者については、その出版の二年後にドゥルーズが的確無比な書評 « Gilbert Simondon, L’individu et sa genèse physico-biologique » を Revue philosophique de la France et de l’étranger に発表し、シモンドンをきわめて高く評価していたことを忘れるわけにはいかない(同書評は、L’Île déserte et autres textes, Les Éditions de Minuit, 2002 に収録されている)。
シモンドンの哲学がその全体として再評価され始めるのは、その死後のことである。この再発見と再評価は、しかし、シモンドン自身が準備したとも言える。それは、主論文後半の1989年の出版の際にそれに付されたシモンドン自身による長文の補遺ノート « Note complémentaire » が主論文と副論文との関係の明瞭化に貢献しているからである。これを裏から言えば、それ以前は、シモンドンにおける技術論と個体化論との関係がよく理解されていなかったということである。
もちろんシモンドン自身にとっては、技術論と個体化論とは最初から不可分であり、後者が切り開く広大な総合的人文・社会・自然科学的パースペクティヴの中に位置づけられてこそ、前者の現実社会での実践的射程も明らかになることは、両論文の完成時点ですでに十分に自覚されていたことであった。
「シモンドン・ルネッサンス」が本格化するのは、ベルギー人哲学者ジルベール・オトワ(Gilbert Hottois)による最初のモノグラフィー G. Simondon et la philosophie de la « culture technique »,(Bruxelles, De Boeck)が出版された1993年以降であり、特に2005年に初めて1958年の主論文の完全版がそのもともとのタイトルで Jérôme Millon 社から出版されると、以後毎年のように講義録や講演記録が出版あるいは再刊されるようになり、今日に至っている。シモンドンの哲学の先見性と独創性とが広く理解されるようになるのに、約半世紀を必要としたということになる。
シモンドンを本格的に研究し、その哲学の今日における重要性をよく理解するためには、言うまでもなく、1958年の博士論文の主論文と副論文とを読むことから始めなければならないが、それは容易ならざる持続的知的努力が要求される作業である。それにはいくつか理由があるが、その最大の理由と私に思われるのは、複雑な現実をその複雑さのままに捉えるために、きわめて高度な注意力をもって、人間社会をその多元性・多層性においてどこまでも総合的に探究しようというシモンドンの「百科全書的」姿勢についていくことの難しさである。
しかし、この困難を引き受ける者には、それに見合うだけのより広くかつ深い現実社会の理解をシモンドンの哲学は約束してくれているように私には思われる。