内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカル『病の善用を神に求める祈り』を読む(4)― 悪足掻きを続けることくらいしか

2016-02-08 00:00:07 | 読游摘録

 昨日の記事では、「弱音」を吐いた。そんな情けないことを吐露すくらいなら、最初から難しいテキストなど読まなければいいではないか。もっと自分に「身近な」「わかりやすい」作品を読んで自分を慰めていれば、それでいいではないか。周りの人間の気持ちもわからないような人間に、文化的にも時代的にも途方もなく隔たりがあり、とりわけその精神の高貴さにおいて懸絶している天才の考えていることなど、そもそもわかるわけがないではないか。結局何もわからなかったという結果に終わるだけの空しい悪足掻きを、性懲りもなく、私は続けているだけなのかもしれない。
 しかし、その悪足掻きを続けることくらいしか、私には能がない。それが能であるとしての話だが。
 だから、とにかく、他に為す術もなく、メナール教授の解説の摘録を坦々と続けることにする。

Mais la spiritualité de la Prière et aussi fondée sur la considération du Christ, en la personne duquel s’unissent paradoxalement la plus grande souffrance et la plus parfaite innocence. Sans le sacrifice du Christ la souffrance des hommes n’aurait aucune valeur ; et toute souffrance humaine prend valeur lorsque Dieu la fait participer à la souffrance du Christ. Car cette dernière était le pur effet de l’amour. Elle n’était liée au mal que par celui des hommes, qu’elle avait pour fonction de racheter. Le corps du Christ souffrant rend aimable à Dieu tout corps qui souffre. En Dieu, l’amour de son Fils s’unit à l’amour des hommes. Dans la relation de l’homme à Dieu, la Médiation du Christ est toujours nécessaire (991-992).

だが、『病の善用を神に求める祈り』の霊性は、最大の苦しみと最も完全な潔白さとがその位格において逆説的に結合しているキリストを考察することにも基礎をおいているのである。キリストの犠牲がなければ、人間の苦しみには価値がまったくないことになるであろう。人間のあらゆる苦しみが価値をもつのは、神がキリストの苦しみに人間の苦しみを与らせてくださるときなのである。キリストの苦しみこそ、何よりも愛に由来していたからである。キリストの苦しみは、人間の悪によってはじめて悪と結ばれていたのであって、しかもその人間の悪を贖うことを任務としていたのだ。苦しむキリストの体が、すべての苦しむ体を神に愛されるものとするのである。神にあっては、そのおん子への愛が人間への愛と結び合わされる。人間と神との関係では、キリストを黙想することは常に必要となっている(456 一部改変)。

Dans l’évocation du Christ et des souffrances de la Rédemption se manifestent déjà le dessein de Dieu sur le monde. Souffrance et maladie entrent ainsi dans l’économie du salut, et prennent tout leur sens dans le déroulement d’une histoire providentielle (992).

キリストと贖罪の苦しみを思い起こすことのなかには、すでにこの世に対する神の計画が現われている。苦しみと病とは、こうして救いの筋立てのなかに入り、摂理の歴史の進展のなかでそれぞれの意味をもつことになる(456)。