昨日の記事では、引用したシモンドンの原文について、その最初の一文に使われている « participable » という形容詞の語義を明確化するだけにとどまったので、今日の記事ではその原文を一通り読んでしまおう。
まず、同じ原文を再掲する。
L’être technique est participable ; comme sa nature ne réside pas seulement dans son actualité, mais aussi dans l’information qu’il fixe et qui le constitue, il peut être reproduit sans perdre cette information [;] il est donc d’une fécondité inépuisable en tant qu’être d’information ; il est ouvert à tout geste humain pour l’utiliser ou le recréer, et s’insère dans un élan de communication universelle (p. 512).
技術的存在は、それに人が参加・参与できるものである。その本性は、単に現在のその働きにあるのではなく、その存在が固定化し且つその存在を構成している形成情報にもあるので、技術的存在は、その情報を失うことなしに、再生産されうる。それゆえ、技術的存在は、情報存在として汲み尽くしがたい生産性を有している。技術的存在は、その存在を使い再生産するあらゆる人間的所作に対して開かれており、普遍的なコミュニケーションの躍動のうちに内挿されている。
以上が原文のおよその内容である。
技術的存在は、それが現に機能している共同体の自己保存を目的とした規則群によって完全に制約されることはけっしてなく、己自身の内に自己形成情報を包含しているがゆえに、それら共同体からの外的拘束からは自由に、それとは独立に、自己形成を繰り返し実行することができる。この内在的自己形成力としての形成情報が技術的存在をして歴史的に制約された共同体の枠組みを突破して己を普遍的な関係性の一項になることを可能にしている。
このような技術的存在を形成する作業を実行することで「技術的動物」(« ζῷον τεχνιχόν »)になることによって、人間は、共同体から解放され、「真の個体」(« un véritable individu »)になる。
技術の本性に基礎づけられたこのような一般個体化理論は、シモンドンによれば、一つの倫理に基礎づけを与えるものである(ILFI, p. 330)。