内的自己対話-川の畔のささめごと

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人間の技術的操作可能性に対する驚くべき楽観的態度 ― シモンドン研究を読む(11)

2016-09-13 06:00:00 | 哲学

 ファゴ=ラルジョの論文には、同じ論文集に論文が収録されてもいるジルベール・オトワ(Gilbert Hottois, 1946-)が1993年に刊行した、シモンドン研究史上最初のモノグラフィー Simondon et la philosophie de la « culture technique », De Boeck に言及している段落が一つある。そこで言及されているのはオトワのシモンドン批判である。
 生命倫理を主たる研究テーマとしているオトワは、シモンドンに対して、生命工学が引き起こす諸問題の重大性を認識してなかった点を批判する。それは時代の制約によっては説明しきれない「盲点」だという。なぜなら、すでに1950年代終わりに人間の技術的対象化の可能性にシモンドンは気づいているが、それは主にその対象化がまだ本格化していないことを遺憾に思ってのことだからである。
 その証左として、オトワは、シモンドンが1959年に発表した論文 « Les limites du progrès humain » の中で、「人間は、人間として極めて稀にしか技術的操作の対象にならない」と述べている箇所を引用する。その箇所で、シモンドンは、人間が技術的操作の対象になる可能性が孕んでいる疎外の危険に注意を促してはいるものの、その技術的対象化の未発達を遺憾に思ってそう述べていると思われる。
 シモンドンはそれ以後この問題を取り上げ直し考察を深めることはなかった。人間に対する物理的科学技術が目覚ましい発達を遂げていた1970年代になってもそれはなかった。それは、オトワによれば、シモンドンが人間の生物学的本性を操作する可能性について本気では信じていなかったからである。人間に対して信じうる唯一の操作可能性は、文化的あるいは象徴的操作であろう、というわけである。
 オトワによるシモンドンのこのような批判的解釈に対して、ファゴ=ラルジョは、そのままでは承認しがたいという。なぜなら、上掲の1959年の論文の中でシモンドンが人間に対する技術的操作の例として挙げている僅かな例の一つは外科治療であるが、外科治療は、言うまでもなく、身体に対する象徴的操作ではないからである。それに、動因としての有機体による自発的に方向づけられた生物学的個体化を信じていたシモンドンが、意思に従って方向づけが可能な生物学的個体化を信じてはいなかったということを上記のオトワの解釈が含意しているとすれば、その解釈は支持しがたい。
 とはいうものの、シモンドンが稀に上記の問題を取り上げる際、その仕方が驚くほど「楽観的」な調子であることをオトワが強調するとき、ファゴ=ラルジョはそれに同意する。