内的自己対話-川の畔のささめごと

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発明するのは個体ではなく、主体である ― シモンドン研究を読む(24)

2016-09-26 02:09:53 | 哲学

 ILFI の補遺ノートでは、技術的努力によって共同体の拘束から解放された技術者は「純粋な個体」(« individu pur »)と呼ばれていたが、MEOT の結論部では、それが「主体」(« sujet »)と呼ばれている。

Ce n’est pas l’individu qui invente, c’est le sujet, plus vaste que l’individu, plus riche que lui, et comportant, outre l’individualité de l’être individué, une certaine charge de nature, d’être non individué (Du mode d’existence des objets techniques, nouvelle édition revue et corrigée, Aubier, 2012, p. 336).

発明するのは個体ではなく、主体である。主体は、個体よりも広大で、豊かである。個体化された存在の個体性ばかりでなく、あるところまで自然を、つまり個体化されていない存在をその身に包含している。

 発明を実行する者は、己が属する共同体の規則による拘束を超えて、対象的事物に直接的に働きかけることができる者であるから、単に共同体の中で個体化された存在として行動できるだけではなく、その共同体には組み込まれていない自然、つまり個体化されてはいない存在に技術を介して繋がっている。
 このような発明を実行する者が「主体」あるいは「純粋な個体」であるが、いずれにせよ、シモンドンにおいて、それは「労働者」(« travailleur »)に対立する概念である。「労働」は、実利を目指すもので、人間の諸々の実際的な必要に向けて規定され秩序づけられている。それに対して、技術は、実利追求ではなく、対象に対して客観的である(この論点において、ベルクソンと離れることをシモンドンは自覚している)。
 労働者は機械あるいは技術的装置を使うが、その作業が発明活動を延長することはない。その作業は社会文化的装置の枠組みの中にとどまり、その装置のおかげで労働者はもはや「対象の発生的図式」(« le schème générateur de l’objet », A. Fagot-Largeault, « L’individuation en biologie », art. cit., p. 45)を操る必要がない。しかし、それゆえにこそ、労働は対象からの疎外の源になるのである。