昨日の記事で見たような技術の内在的規範性についてのシモンドンのテーゼに対して、次のような反論を試みてみたくなるとファゴ=ラルジョは言う。
治療技術の規範性は、技術それ自体の規範性に拠るのではなく、医者は患者を治療することをその義務とするという医学に内在的な規範性に依存しているのではないか。
内在的に完璧な技術であっても、したがって、シモンドンによればそれ自体で己に必然的に課される規範性をもっている技術であってさえも、悪しき目的のために利用されることはありうるのではないか。
これら二つの反論は、いずれも技術の規範性は完全には自律的ではないのではないかという疑問を投げかけている。
これらの反論に対して、シモンドンは次のように応じるであろうとファゴ=ラルジョは言う。
ある技術の使用とその同じ技術の内在的な卓越性とを混同することは皮相な見解である。前者は、その人間的目的に奉仕するための適用であり、したがって、その適用は社会的規範の範疇に属する。後者は、その技術的存在が現実世界の中で実質的にその場所を得るという事実によってそれ自体において証明される。悪しき技術はそもそもそこで功を奏することがない。
このように予想されるシモンドンの再反論を支えるであろう具体的論拠として、ファゴ=ラルジョは、出産前検診におけるエコグラフィーの使用を例として挙げる。
エコグラフィーは、周知の通り、すでにいたるところで大きな成功を収めており、その使用はいわゆる先進国では一般化している。エコグラフィーによって、妊娠早期の段階で胎児のある種の異常や特異性を発見することができる。
ところが、エコグラフィーによって出産前に胎児の性別を知り、その性が望まれない方の性であれば中絶を図るという親が出てくることもありうる。そのような意図的な中絶は、国によって、場合によって、法的に禁じられているということはありうる。このような事実は、しかし、エコグラフィーとして実現されている技術そのものを有罪として告発するものではない。
技術の質は、その技術そのものによって決定されるのであり、そのことは、ある国ではエコグラフィーの使用が出生前性差別をさせないために禁止されうるということとはまったく独立である。
このような議論には次のような主張が含意されている。
技術の客観的卓越性は、文化的規範に対してある一定の免責特権を有しているのに対して、その逆は言えない。つまり、文化的規範は、技術の客観的卓越性を前にしてそのまま保持されうる保証はない。
技術的規範と文化的規範との間に見られるこの非対称性を私なりに説明すれば以下のようになる。
ある新技術が現実世界の中でその実質的有効性を証明し、それ自身に内在的な規範にしたがって実際に適用されれば、それは現実世界に直接的に変化をもたらし、場合によっては、既存の文化的規範に対して変更を迫り、さらには、特定の文化圏の規範を超えたより普遍的な規範の確立へと人類を促す。それに対して、文化的規範は、その適用範囲が常にある一定の文化圏内に限定されており、しかも、技術革新によって変化を被った社会内においても、その改定を迫られることがありうる。