今日から « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » 第二章 « Individuation et invention » 第二節 « L’opération technique comme condition d’individuation. Invention et autonomie ; communauté et relation transindividuelle technique » の読解に入る。
その前に、私の読解方法について一言しておきたい。
シモンドンの文体の特徴は、文法的にはそれだけで完全な単文・重文・複文がポアン・ヴィルギュル(セミコロン)またはドゥ・ポワン(コロン)を介して延々と連接され、その連接された全体が一つのアーギュメントを構成していることである。議論の密度と整合性という観点からの比較を脇に除けて、単に文章構成上の特徴という点に限って比較するならば、西田幾多郎が各文の終わりに句点の代わりに読点を打つことで、複数の文を繋いで一纏まりの思考を提示しようとするのと似ているところがある。
このような文体の哲学者たちの思考のリズムを把握するには、その一連の文によって構成されている全体を一掴みにして読む必要がある。裏返して言えば、その全体を細切れにして構成要素である各文に分解して分析してみても、それで内容がよりよく理解できるようにはならない。このような文章を前にして取るべき読解方法は、その書き手によって直観的に一気に把握されている事柄の時間的展開としてその文章を読むことである。そして、その読解作業を通じて彼らの直観的把握を共有できるところまで来れば、もはやいちいち細部にこだわらなくてもよくなる。細部に執着する細密主義的釈義は、このタイプの哲学者たちの文章の理解にはさして有効ではなく、多くの場合、労多くして得られるものは少ない。
さて、前置きはこれくらいにして、第二節の最初の「一文」(つまり冒頭から最初のピリオドまで)をそのまま転写してみよう。
Le rapport de l’Homme au monde peut en effet s’effectuer soit à travers la communauté, par le travail, soit de l’individu à l’objet, dans un dialogue direct qu’est l’effort technique : l’objet technique ainsi élaboré définit une certaine cristallisation du geste humain créateur, et le perpétue dans l’être ; l’effort technique n’est pas soumis au même régime temporel que le travail ; le travail s’épuise dans son propre accomplissement, et l’être qui travaille s’aliène dans son œuvre qui prend de plus en plus de distance par rapport à lui-même ; au contraire, l’être technique réalise la sommation d’une disponibilité qui reste toujours présente ; l’effort étalé dans le temps, au lieu de se dissiper, construit discursivement un être cohérent qui exprime l’action ou la suite d’actions qui l’ont constitué, et les conserve toujours présentes : l’être technique médiatise l’effort humain et lui confère une autonomie que la communauté ne confère pas au travail (G. Simondon, op. cit., p. 512).
第一節の第二段落後半で導入された技術と労働との区別と対比が上掲の「一文」のアーギュメントの前提になっている。
世界に対する〈人間〉の関係は、己が属する共同体(の組織・システム)を通じて労働によって実行されるか、あるいは、個体から対象への直接的対話において実現される。この直接的対話が技術的努力にほかならない。この技術的努力によってもたらされた技術的対象は、創造的な人間的行為のある一つの結晶化を定義しており、その行為を存在において永続化する。技術的努力は、労働と同じ時間体制に属してはいないのである。労働はそれ自身の実現とともに消尽され、労働者は己の生産物が次第次第に己に対して疎遠になることで自己疎外されるに至る。それに対して、技術的存在は、技術的対象に対して常に直接的に働きかけうる状態を維持する。時間の中に展開される技術的努力は、雲散霧消することなく、己を構成している一連の行動を表現する整合的な存在を一定の論理に従って形成し、それら一連の行動を常に現勢的に保持する。技術的存在は、人間的努力に(世界に対する)媒介を(共同体を介さずに)提供し、それによって自律性を人間的努力に授ける。この自律性を共同体が労働に与えることはない。