オトワのシモンドン批判についての検討を終えた後、ファゴ=ラルジョはシモンドン自身に向かって問いかける。
たとえ人間の遺伝子への技術的介入の到来までを視野に収めることはなかったとしても、それでもなお、シモンドンは、人間の個体性を脅かすようないくつかの医学的に大胆な試み(例えば、臓器移植)に対して懸念を示すことはできたはずだし、バクテリアや植物に対する遺伝情報操作(例えば、農業ではすでに普通のことになっていた種子に対する操作)に対して警戒することはできたはずである。ところがシモンドンはまったくそのような素振りを示さなかった。
それはどういうわけなのか。シモンドンは、植物が技術的対象に成りうるということを本気では信じていなかったということなのか。あるいは、Du mode d’existence des objets techniques の中で例として挙げられていた技術的対象にさらにそれらの対象を加えても、同書の中での技術的対象についての考察に何ら変更を加える必要はないと考えていたということなのか。
確かに、シモンドンの世代にとって、参照されるべき主たる技術的対象は、自動車、電磁波の送受信機、コンピューターなどであって、遺伝子組み換えされたトウモロコシの変種や遺伝子操作されたマウスではなかった。しかし、シモンドンは、医学の領域における技術的操作をめぐる当時の動向を無視していたわけではなかった。
ファゴ=ラルジョは、このように述べた後、ILFI の巻末に置かれた補足ノート « Note complémentaire sur les conséquences de la notion d’individuation » から、シモンドンが医者を「純粋な個体として技術者」の範型として論じている箇所、シモンドンの技術の哲学を理解する上で極めて重要な箇所の考察に入る。
そこで、明日から、単にファゴ=ラルジョの論述を追うだけでなく、参照されている ILFI の当該箇所を私たちも直接読みながら、シモンドンが医者を「純粋な個体としての技術者」の範型と考えていた理由の理解に努めよう。