昨日の記事の最後に引用したシモンドンの ILFI からの引用で締め括られた段落の直後の段落で、ファゴ=ラルジョは、その引用の中に提示されたシモンドンの考察は生体医学的技術に直接適用可能だとして、一つの具体例を挙げている。
その例とは心臓移植である。1967年に南アフリカで世界最初の心臓移植が行われた。その後、急速な勢いでアメリカ、ヨーロッパ諸国で次々と行われるようになった。その結果、人種的偏見が覆されるようにもなった。いわゆる人種間の移植が可能であることが実証されたからである(私注:もちろんそれで偏見が一掃されたわけではないのは周知のことだが)。他方では、それまでの死の定義の変更が迫られた。脳死をヒトの死とすることで、「生きている」心臓を合法的に摘出し、移植するためである。
ここでファゴ=ラルジョは、当時、急速な心臓移植に対して抵抗を示した国として日本に言及し、日本では、文化的抵抗が新技術が内包する魅力に勝っていたとしている(しかし、これは妥当な見解とは言い難い。なぜなら、1968年の札幌医科大学で和田心臓移植事件が日本社会にもたらした「後遺症」のことが考慮されていないからである。その後、日本で心臓移植が法的に可能になったのが1997年の臓器移植法制定後、その法に基づいた最初の心臓移植手術は1999年。日本心臓移植研究会のサイトより)。
それに続けて、ファゴ=ラルジョは、しかし、そのような抵抗は、心臓移植技術そのものが技術として疑われたということを意味しないと言う。そして、シモンドン ILFI から次の一節を引用する(下の引用では、ファゴ=ラルジョが引いていない一文も加えてある)。
L’adoption ou le refus d’un objet technique par une société ne signifie rien pour ou contre la validité de cet objet ; la normativité technique est intrinsèque et absolue ; on peut même remarquer que c’est par la technique que la pénétration d’une normativité nouvelle dans une communauté fermée est rendue possible (p. 513).
一つの社会がある技術的対象を受け入れるか拒否するかは、その対象の妥当性に対する賛成あるいは反対を意味しない。技術的規範性は内在的かつ絶対的である。技術によって、新しい規範性が閉じた共同体の中に浸透することが可能になるとさえ指摘することができる。
引用に続けて、ファゴ=ラルジョは、シモンドンの主張をこう言い換える。
ある技術に内在的な規範性は、ある伝統から受け継がれてきた道徳的規範に対立しつつ、ある社会の価値体系の再編成をより大きな普遍性へと向かわせうる。
しかし、それが可能なのは、価値の諸体系は準安定的なもので、それゆえ見たところ互いに相矛盾する規範をそれらが互いに共可能になるように統合化することをそれら諸体系ができるかぎりにおいてである。
それにしても、ある技術が、たとえ多くの人たちにとって非道徳的であり、さらには危険でさえあると見なされているときでも、その技術の私たちの道徳的世界にまで及ぼしうる影響についてかくも肯定的な主張を繰り返すシモンドンの技術に対する信頼というかオプティミズムはどこから来るのだろうか。
それを理解するためには、シモンドンが言うところの「技術的規範性」(« normativité technique »)が意味するところを捉えなくてはならない。